急:破 ≪悪夢≫
顔を突き合わせるには街並みが邪魔だ。
なので魔女はまず右手親指の腹を口に当て、糸切り歯で薄く裂き、血を一滴だけ落とした。
シュニツェラ中を満たす、地面の深緑を透かした湯。
赤の一滴がそこへ波紋を作ると、瞬きよりも早く、一面が血の色に染まっていった。
この景色は魔女自身が最近見たの悪夢をモチーフにしていて、水中を触手持つ不気味で巨大な影が忙しなく泳いでいる。
辻褄が合わないのは、水底はそんなサイズの海魔が潜っていられるほど深いはずはなくて……だがしかしそんなことは『魔』には関係がない。
さらに血をもう一滴。
それを合図にシュニツェラに並ぶ建物すべてに対し、発破の勢いで水面を割って出た無数の触手が一斉に絡みついた。
蛸か烏賊を想起させるこの触手。悪夢を助長するのは、表面に無数に張り付いた吸盤の真ん中に、人のものとしか思えない口が付いていることだ。
魔女が緩く開いていた掌を、握る。
触手たちが建物を締め上げ、握り潰した。
魔女が拳を、力を込めて引いた。
触手たちが瓦礫に成り果てた建物を、水中へ引きずり込んだ。
すっかり一掃されてしまったシュニツェラの街。
後に残るのは佇む魔女と。傍らにある、嬌声を漏らし続ける女の肉団子。真っ赤な湖に、突き出した扉の樹。
それから一軒だけ残された、来客用の家屋。
「んっふ」
魔女は笑みを零しつつ、それへ右手を伸ばした。
触手がヌルヌルと最後の建物を巻いていき、吸盤の口が呻きのようなものを呟き続けている。
握り、潰す。
それよりも早く、屋根を割って飛び出す影、あり。
イグナだ。
肩にキアシアを担いでいる格好であり、崩落する家屋と魔女の立つ位置の両方から等間隔の距離に、飛沫を上げて着水した。
彼女の端正な顔がしかめられる。不可解な血液色の湖面は、人間の体温とほぼ同程度。
この不気味な湯に浸ることを、というよりキアシアを浸らせることを嫌ったイグナは、多少のエネルギー消費を必要と割り切って、足裏の電磁反動装置を起動して水面に立つ。
魔女は、イグナとキアシアを順番に眺め、愉しげに首を傾げた。
イグナは警戒から、全身のセンサーをそばだてている。
キアシアは歯を食いしばり、周囲の悪夢に声を上げないよう、必死に耐えていた。
口火は魔女が切る。
「ねぇ、赤髪の彼女! 貴女って一体何者?」
フードに隠された魔女の瞳は慧眼で、イグナが人の姿をしているが、その実人間ではなく、カラクリとも様相の異なる者であると、はっきり見破っていた。
のみならず、この世界のものでないことさえも。
「あたし、貴女と会ったことがあると思う! うぅん、絶対会ってる! 間違いないわ、貴女みたいなニンゲンジャナイモノ、見間違えるはずないもの! そうよねぇ!」
「会った、といえるほど確かな遭遇ではありませんでしたが」
わずかだが、イグナの目が剣呑に細まった。
声音にも少しばかりの、敵意。
「えぇ。ワタシもしっかりと覚えています。貴女のおかげでワタシは、我が主に、少々不甲斐ない姿を晒しましたので――億法都市で」
「ふぅん? ヴェルメノワ?」
記憶を辿るのに魔女はいささか手間取った。
かの街で共鳴神ナルナジェフの鍵を手に入れた大金星は克明に覚えている。が、それをどんな手段で成したのだったか。
住民の味覚を弱めて、塩を摂る量を増やすように仕向けた、いや違う、それは別の街での別の悪事だ。
天秤、確か天秤に細工した。後は果実。天才になる果実をもたらした? それはグィングルム大陸での出来事だったような。
大陸間を股にかけ、無数の街で星の数ほどの謀を動かしている魔女だ。可愛いもの美しいものは忘れない自信があるし、この赤髪の乙女は大変好みだが、しかしそれでも確かに思い出すには至らない。
なんだったらキアシアのほうが、印象に強いくらいである。
「貴女のほうは、初対面のはず、よね? ……でも知ってる顔ね」
「え……?」
「他人の空似ってやつ? ……違うわよねぇ。
ねぇ貴女、貴女の瞳も七変化するの?」
「っ!」
はぁっとキアシアは息を呑む。
魔女はこの眼を知っていると言う。この顔を知っていると言う。でも初対面で間違いはなくて、ということは導かれる答えは一つしかなくて……。
「あなた、お姉ちゃんの知り合い……っ? あの人生きてるの!?」
「んっふ、やっぱりぃ」
今までで一番笑みを濃くした魔女は、これが『吉』であるのか『凶』であるのか、計るべく思考を巡らせた。
魔術師にメジャーな観念、思想だ。
理、運命、世界というものは、平均を取ろうとする性質がある。という考え。
魔導によってそれらを歪めれば、元に戻る力が働いて、術者へリスクとして圧し掛かるという訳だ。
ライヤを覚醒せしめた異邦人の少女二人。
片やかつて陥れた街で、肩をすれ違わせた赤髪の乙女。
片や同胞として迎えた女の、妹である虹の魔眼の乙女。
この邂逅は、巡り合わせと言うにも出来過ぎだ。明らかに何らかの運命が作用している。
この二人は、これまで魔女が歪めた理を修正すべく、世界が遣わした使者か。
あるいはそれすら欺くべく魔女が施してきた企みが功を奏し、より高みへと押し上げるべく吹き付けた追い風か――ライヤを完成させたことを思えば、都合のいい解釈でもあるまい。
使うべき者たちか。
始末すべき者たちか。
「ちょっと、調べてみようかしら」
そのときイグナもまた、限界値ギリギリまで電脳を稼働させ、必死に測っていた。
主に距離。そして速度。言うまでもなく、狙うは街からの脱出だ。
あのシスター服の女が何者かは知らない。だが尋常な相手でないのは確かだし、暫定的に敵勢力と設定して差し支えないだろう。
となれば優先すべきは一にも二にも、陸歩との合流。
優先順位第二位のキアシアを守るためにも、それは必須。
魔女の裸足の爪先が、水面を突いて波紋を作った。
イグナは感知センサーに殺到した敵影に、ギアを戦闘モードに移行する。
「キアシアさん、飛びますっ」
「う、わ、――っ!」
それは跳躍ではなく、飛行だった。
背中と腰と踵にブースターを生んだイグナはキアシアを抱きかかえ、高速で宙を舞う。
一瞬前まで居た場所でのたうっているのは無数の触手で、少女たちを捕らえ損ねたために味方同士でぶつかり合い噛みつき合ってしまい、そのことに怒り狂って喧嘩するのに熱心だ。
「へぇえ? 面白いじゃなぁい」
魔女は術のために噛み切った右手の親指を舐めながら、中空を後退していくイグナを眺める。
翼もなしに空を飛ぶというのは興味深い。それはこの世界の宗教的観点から言えば、十分に冒涜と言える行いだ。
もしかしたら同業かも? と魔女は心を弾ませる。
どうやら彼女たちは離脱する腹のようだが、もう少し遊んでくれなければ退屈だ。
「逃げちゃダぁメ」
親指の傷を、さらに歯で抉る。
より派手に毀れだした血を、魔女は自らの唇へ紅のように塗りたくった。
そして呟く。
「――、――、――」
彼女より紡がれるそれは、呪文。
たった三節の詠唱。
この世界とは異なる天地において、取り決められた約束の言葉。
訳したならばこうなる。
『鳥は地に。空は土に。星は屍に。』
イグナは最初、キアシアが重くなったかと錯覚した。
次に自身の推進能力に何らかの不具合が生じたかと思った。
どちらでもない。
強いて言うならば……空が低くなった。
飛べる高さ、上昇できる高さが引き下がった。それが一番近い感覚だ。地面が追いかけて登ってきたとも言えるのだろうか。
「くっ、」
意味は上手く理解できないが、このままでは飛行を維持できない。
墜落は時間の問題。
「キアシアさんっ。オーダーを……っ!」
「え、えっと、」
「早く!」
「ぉ、オーダー、コード、ブラスター!」
イグナの機能が解放される。
【Code:Bluster を受諾。
セカンドユーザーによるOrderのため、能力開放値は75%を基準とします。
射撃兵装をレベル2までロック解除。
副兵装近接武器をライン1解放。
セカンドユーザーに形状を補正し、着装を開始します。
ユーザーはその場に待機してください。】
空中でほどけたイグナがキアシアを包んだ。
その意匠は陸歩とそうするときと異なりずっと細身で、女性らしいシルエットを見せ、また頭部を覆うヘルメットがずいぶんと大きめである。
セカンドユーザーに対し、これが最適とイグナが弾き出したデザインだった。
膝をつくように、着水。
と同時に、触手が何本も殺到する。
「わ、わっ、わっ、」
戦いの心得などないキアシアは束の間パニックだ。
しかし今彼女が纏うのは、一騎当千の駆動鎧、イグナである。
鎧の腰からマニュピレータが二本、解放される。
電光熱の副刃が灯り、鞭のように細くしなり、迫る触手を打ち払った。
千切れ飛び、焦げた不浄の肉は酷い悪臭を放ち、また吸盤の口からはおぞましい悲鳴があるが、イグナはヘルメットでそれらを的確にシャットアウトする。
「キアシアさん、走ります。合わせてください」
「う、うん、きゃっ!」
鎧が自ら動き、内蔵された人間のほうがそれに誘導される。
テクノロジーが作り上げた逆転現象であり、これによって素人のキアシアでも死地を躱すのに不自由がない。
完璧な予測で導き出された回避ルートを、宙返りや背面跳びも交えてくぐり抜け、二人は触手の隙間を一切の無駄なく優雅に踊った。
そして計算ずくの位置取りで、一瞬、射線が通ったことをイグナは見逃さない。
キアシアの身を借りて、右腕を上げた。
その腕から手の甲にかけてには銃身が沿い、キアシアが反動に耐えられるギリギリの威力で、弾丸を、
射出。
「あらやだ」
音速すら置き去りにする必殺の銃弾だ。
だが魔女は小揺るぎもせずに待ち受ける。単に避けるだけの反応がないだけか
いいや、必要がないからだ。
弾丸は突如、魔女の目の前で消失した。
かと思えば魔女の背後に出現し、そのまま彼方まで飛んでいく。
魔術を用いれば飛来する球を予期するなど何でもない。
魔術を極めれば自分の前と後ろの空間を繋いでしまうなど、朝飯前だ。
「危ないじゃないのぉ」
イグナは続けて、二射、三射。
しかしあくまで物理の銃では、魔導の障壁は破れない。全て無意味に魔女を通過していくだけだ。
魔女が肩を竦めた。
イグナの――キアシアの――脚に、触手が絡みつく。
「くっ、」
腰の副刃で切断する。
が、その間に次が、次が、次が。
あっという間に触手に集られて、イグナは自らの失着を悟った。
強引に手足を振り回せば、払うことは出来る。だがその動きは、内に納めているキアシアも裂いてしまうことだろう。
かといってこのままでは。
「イグナっ!」
キアシアの声がイグナを強く打った。
「あたしの銃! 使って!」
「っ!」
銃。キアシアの銃。
イグナは彼女を包み込むにあたって、腰のホルスターも当然呑み込んでいた。
鎧を該当部分だけ最小限に変形させ、それを露出させる。絡んでくる触手を無理やり引き裂いて手に取った。
キアシアの銃。
古めかしく、かつ異様な銃だ。
リボルバーの代わりに球体のパーツが組み込まれた、ただ一発だけを撃つためのハンドガン。
左右の手に一丁ずつ。イグナは右手のほうを、触手に邪魔されるのを歯牙にもかけず、魔女へと向けた。
「――キアシアさん、申し訳ありません。使わせていただきます」
射。
「あっらやっだぁ!」
さしもの魔女も瞠目した。
銃口から飛び出したのは弾丸ではなく、眩く世界を焼き尽くす極光の束だった。
それは龍の輪郭を帯び、猛り狂い、魔女へと躍りかかっていく。
口に浮かべる笑みの色を、好戦へと変えた魔女は、茨に覆われた左手を前に出した。
その掌に、押し止められた、龍。
しかし魔女もまたジリジリと後ろに下げられている。その手が極光の熱に、赤く染まっていく。
「お、ん……ど、りゃああああ!」
魔女の左手もまた、虹を発した。
魔力を術にせずに直接放ったのだ。同じ性質のエネルギーを鼻先にぶつけられた龍は真っ二つに裂け、魔女の左右を通り過ぎていく。
両側から挟むように襲ってくる熱風に、魔女は顔をしかめた。
「やぁああぁるじゃないのぉ……」
ブスブスと煙を上げる左腕。洒落でなく中々に手痛い。
それでもだいぶ軽く済んだ方だ。
もし直撃していたらと考えると。総毛だつというもの。
「今の、虹の魔眼でしょう? 潰すと『奇跡』を放つ、例の目よねぇ。えらいもの撃ってくれるじゃないの」
然り、銃に納められていたのはキアシアから摘出された魔眼だ。
射出されたのは超高純度、神威と言っても過言でないレベルの魔力波だ。
その威力は筆舌に尽くしがたいものがあり、イグナたちの周囲は蒸発、触手の群れも消し飛んでいた。
……のみならず。イグナ自身が射撃の余波に膝をつき、ダメージによる機能不全から立ち直ろうともがいていた。
魔女は未だ歯を見せた笑みを崩さない。
その顎に汗が伝う。
「その左手のほうも撃つ? あたしと貴女たち、どっちが丈夫か試してみましょうか」
「…………、いえ」
キアシアの力も借りて、かろうじて立ち上がったイグナは。
「この一発こそ正真正銘、切り札ですので」
残る銃口を、全く明後日の方向へ向けた。
魔女の、半分隠したままの表情が不可解に歪む。
それに構わずイグナは、キアシアは、引き金を引いた。
発する極光。
しかし今度のそれは先の一撃よりずっと小さく、大人しく、愛らしく、小鳥の形を結んでいく。
「なぁにそれ?」
ヒヨヒヨと生まれたての飛び方で行く小鳥は、どう想像しても凶暴な結果を生むとは思われなかった。
しかもそれが自分に向かってきてさえいないのだ。
魔女は首を傾げて、小鳥が外壁に至るまで見送って。
小鳥が壁にぶつかり、溶けた。
壁が向こう側から、ぶち抜かれた。
「あはん?」
転がり込んでくる、紅蓮のケモノ。
また面白いものが現れた。魔女は笑った。
そしてあの青年の姿をしたナニカが、『吉』であるか『凶』であるか、思いを巡らせ始める。




