急:序 ≪儀式≫
十六人の女が、樫の枝を幾重にも編み込んで作られた杖を持ち出し、街の中心で円陣を組んで古代語を唱和する。
それは魔術が最も華やかりし頃に生み出された、今や伝える者も少ない呪歌だ。
意味すら取れぬ言葉の一つ一つに潤沢な魔力が込められ、一節を経るごとに、ぞっとするほど世界が書き換えられていった。
十六の女たちそれぞれの心臓が燃えるほど輝き、彼女たちは身体の内側から眩く発光し始める。
その光は線として明確な行き先をもって伸びて、互いに互いと結び合い、複雑怪奇な魔方陣を描き出した。
心臓が魔力の帯にて繋がった女たちは、元々色のなかった表情をことさら透明に純度を上げ、今や詠唱のためだけの人形のようである。
女たちの歌は続く。
辺りには野獣のように猛々しい咆哮が響いた。
女たちが魂を燃やして作り上げる魔方陣の中心には、今やはっきりとした『気配』が蹲っていた。
姿形はまだない。
だがグルグルと唸り声を漏らし、何度も不可視の身をよじり、呼気は霧のように周囲を染めている。
着々と召喚されつつある者。それは悪魔か、あるいは邪神か。
徐々に魔神が輪郭を帯びていく。
女たちから出発した赤光を浴びて育ち、三メートルを超す上半身がおぼろげに完成しつつあった。
腰から下は魔方陣に埋めて。
その背には翼が、七枚。
召喚に合わせて、魔方陣の傍で一本の樹が、異常な速度で育っていく。
しかし枝は一切の葉を付けない。裸のままの、いっそ艶めかしい木肌の、樹木。
これこそが供物であり、この街の魔力を根で吸い上げ、痺れるほどの力を発散しているそれを、魔神の左手がわしづかみにした。
すると樹は、それを待ち望んでいたかのように地面から抵抗なく抜ける。そして魔神の手の中でなお成長を続け、枝と根が螺旋を描いて編み上がっていき、女たちが持つのと同じ杖となった。
変化は終わらない。
魔神の持つ巨大な杖の両端に、赤い光が灯る。
それは女たちの心臓と同じ仕方で互いに結ばれて、弦となり、大きくしなった杖は弓へと姿を変えた。
十六の女たちの杖もまた、弓へと。
咆哮が上がる。
それは魔神の口から。だけでなく、女たちからもだ。
今この瞬間、彼女たちは魔より招来した者と完全に、呼吸も鼓動も唄う舌の動きも一致させていた。
魔神が右手を、自らの胸へ突き入れた。
女たちもだ。
そして心臓から赤光を、力任せに引っ張り出す。
計十七の手の中、星のように一際輝くその光は、揺らめいたかと思えば一様に形を変化させた。
矢だ。
魔神が弓へ、矢を番える。
女たちも。
それを天へと向け、引き絞り、引き絞り、弓が千切れるのではと思われるほど引き絞り、射った。
昇る十七の矢はほどなく街を包む魔力の天蓋にぶつかり、弾け、波紋のように上空いっぱいに魔方陣を敷く。
街は時間を飛ばし、夜となった。
そういう魔術だったのだ。
魔神は既に去っていて、残るのは力なく膝をつく女たちのみ。
やがて、それも儀式の成果なのか、どこからともなく満潮のように湯が沸き始め、シュニツェラの地面を湖に変えていく。
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「やっば……! イグナ、なんか外がすごいことになってるよ……」
キアシアさんは言葉にも表情にも焦りが濃く、それはワタシも同じでした。
「えぇ。これはさすがに、予想外でした」
シュニツェラは街中が大浴場で一斉に湯浴みをする、とはライヤさんから聞いています。
それが今晩催される、とも聞いています。
が、まさかこんな強硬手段といいますか。
魔術によって即、夜にしてしまうなんて、聞いていません。
今やシェニツェラは一面が水浸し。いえ、お湯浸し。そんな言葉はありませんが。
街自体が浴槽とは。
お風呂は文化の象徴という側面があって、ワタシもこれまで様々な街の様々な入浴を目の当たりにし体験もしてきましたが。
これはなんと言いますか、スケールが異なります。
建物が一つ残らず高床な理由がようやく分かりました。
湯は程よく濁り、地面の緑を幻想的に透かしています。
ぽつりぽつりと睡蓮が浮かんでいて、湯気と反応しているのか、ここまで届くほど濃密な香りを放っていました。
あちらの家屋から、こちらからも、女性たちが繰り出して湯へ浸かっていきます。
誰も彼もが、ヴェールのように薄い入浴着。秘すべきところも露わです。まぁお風呂なのですから当然の格好でもありますが。
なみなみとシュニツェラを満たした温泉は、腰ぐらいの深さがある様子。
「街を出るタイミングを、逸してしまったかもしれません」
「うん……やっぱ門、開けてくれないかなぁ。お湯が流れ出ちゃいそうだもんね。
いっそのこと、あたしたちも汗流していく?」
「あまり推奨は出来ませんが」
「だよねぇ……言ってみただけ」
いくら何でもこの街のこの状況で、服を脱ごうという気分には、ワタシもキアシアさんもなりません。
このまま室内で待機がベストでしょうか。
「え……うわっ、えっ、うそ……すごっ」
別な窓から様子を伺っていたキアシアさんが、何やら耳までを真っ赤に染め、うわ言のように呟いています。
一体どうしたのかと思えば。
「……なるほど」
シュニツェラの女性たちが続々とカップルになって、あるいは三人以上の組もありますが、互いに触れ合っていました。
実に情熱的と言いますか。
扇情的と言いますか。
正確に判定するならば触れ合っているのではなくて、弄り合っています。
深く絡み合う女性と女性は背徳的で、邪教の儀式といっても通りそうなほど。
「なんかもう、あたし、この街、のぼせそう……」
キアシアさんはしゃがみ込んで、さらには頭を抱えてしまいました。
ワタシも判断に電脳を悩ませている最中です。
何とか理由を捻り出さねば。
このシュニツェラ住民の愛の交換を報告対象外とし、リクホ様へはお伝えせずに済ませるだけの、理由を。
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シュニツェラが風呂になっていることは承知していたから、そもそも靴を脱いできた。
『扉の樹』で遠く世界の彼方から訪ねて彼女は、裸足で湯を踏む。
「んふっふーん、いい湯加減だこと」
腰までの深さ。しかし彼女は水面に立って、足の裏より先は濡らさない。まだ着衣のままだからだ。
隙間だらけのシスター服。
目深なフードが隠した目元。
左腕には手から肩までを覆う鍵の茨。
口元には、好色な笑み。
魔女だ。
彼女は魔女。
「やーん、興奮しちゃうわぁ。眺め、さ・い・こ・うっ」
今日は久しぶりに一人で行動している。従者は置いてきた。
ここから先は、子どもには刺激が強すぎるから。
「魔女様」
「魔女様よ」
「魔女様」
扉の樹の周囲には、シュニツェラの女たちが大挙して待ち構え、魔女の来訪にヒソヒソと沸き返っている。
魔女は笑みを深めた。
愛いこと、愛いこと。どれもこれも美人ぞろい。まさしく百花繚乱だ。
本当にこの街は、望ましく育った。
手塩にかけた甲斐があるというもの。
そうとも、シュニツェラはこの魔女が創った。
この街の扉の樹は魔女のもの。
この街の女は魔女が種を蒔いたもの。
ここは魔女の庭園だ。
魔女は可愛らしいものが大好きで、美しいものが好ましく、美男子は好物だし、主食は美女だ。
「さぁて? 今晩はどの娘を手折ろうかしらぁ? あたしに舐られたいのは誰ぇ?」
「魔女様」
「魔女様、お恵みを」
「魔女様、お慈悲を」
「魔女様」
「魔女様、私を選んで」
「魔女様、私を」
私を私をと口々に言い、両手を挙げて騒ぐ女たちは餌をねだる雛鳥のようで、その様が魔女をことさら満足させた。
さて、夜伽の栄誉は誰に与えたものか。
あの娘は悪くない。
こっちの娘も香しい。
そこの娘は顔立ちがちょっぴりビターで、歪めたらどんな心地がするだろうか。
「どうしましょ、目移りしちゃうわぁ」
「魔女様」
その声は、ことさら大きかったわけではない。
その声が、特別に力強かったわけでもない。
「魔女様」
あえて言うのなら、そう、『艶』だ。
その声は他とは艶が違い、それだけで場を圧倒して静め、己の独壇場とした。
「魔女様。どうか私をお召し上がりくださいませんか」
「…………へぇ?」
明らかに他とは違う、女が一人。
髪や入浴着をコサージュで飾り、精いっぱいのおめかしという訳だ。
なかなか丁寧な身支度だが所作は未熟で、その不慣れな様子が魔女の眼鏡に適った。
「貴女、名前は?」
「グネンライヤ。ライヤ、とお呼びくだされば」
「ふぅん?」
未だ水面に立つ魔女は、腰までを浸したライヤに目線を合わせるべくしゃがみ込んだ。
影越しの、魔女の目線。
ライヤは頬を紅色にする。
「あっは」
蛇が如く笑う魔女。
「ねぇライヤ、貴女どうしちゃったの? 貴女どうして他と違っちゃったの? 貴女まるで生娘みたい。貴女ったら、素敵よ、ねぇどうして?」
ライヤは熱い吐息を漏らした。
「分かりません。気が付いたら、このように。気が付いたら魔女様のこと考えております。
あぁ、異邦人が教えてくれました。この想いが、恋、なのでしょう?」
「……なぁんてことかしらねぇ」
魔女は隠した目元で眉を上げた。
なんてことだろう。
このグネンライヤという女は、ライヤと呼べと言う女は。
なんてこと。
「なんてことなの。貴女、ライヤ! 貴女、完成よぉ!」
「あぁ魔女様」
「あんもう最っ高! ちょっと摘まみ食いにきただけなのに! まさか! 出来ちゃってるじゃないの!」
感極まった魔女は、そのままライヤの頬を両手で包み、熱く口づけた。
舌と舌を絡める。
ライヤが声にならない高まりを上げ、魔女はさらに激しく蹂躙した。
「――っはぁ。いいわぁライヤ。貴女にする。貴女で決定。貴女で完成。
貴女、ついてきなさい」
「魔女様。
魔女様ぁ。
魔女様……!
ま、じょ、さ、ま、」
邪教の儀式というのなら、これこそが正にそうだ。
魔女が二歩、下がったのを合図に、ライヤは身体を激しく痙攣させる。
自らの肩を抱き、呼吸も滅茶苦茶にガタガタと震え、胴をくの字に曲げて。
そして目を見開き、天を仰いだかと思うと。
先ほど魔女に散々責められた舌を長く突き出し――喉の奥から、花を咲かせた。
花だ。
ライヤの口腔から芽吹いたのは、花。
白目を剥いた女は、あんまりおぞましい花瓶である。
「会心の出来栄えだわぁ」
魔女は満足そうに笑みを浮かべた。
事の次第を見守っていたシュニツェラの女たちは、ライヤから咲いたその魔性の一輪に釘付けとなり、一様に唇を舐めている。
「んっふ。いいわよぉ皆。ここからは宴なんだから、無礼講で。
――食べなさい」
魔女の許可があれば、もはや誰一人堪えられるものはいない。
我先にとライヤへ殺到し、その肢体にむしゃぶりつき、後発の者は先を行く者へ齧り付いた。
女たちの繰り広げる共食いの光景。
あまりの見世物に、魔女は身体をくねらせて恍惚とする。
「あぁ、いい、あぁあいい。もうホント、いいわぁいいわぁ!
誰かしらね誰かしらね、ライヤをあんなにしてくれたのは! 完成させてくれたのはぁ!? お礼をしなくっちゃね、確か異邦人って言ってたわよねぇ?」
ついぃ、と。魔女は仰け反るようにして背後に目をやった。
そこを飛ぶ、一羽の蝶に、目を。
その蝶のさらに『奥』へ視線を。
「ふぅん?」
>>>>>>
全く状況がつかめません。
観測用に放った蝶型のワスプが捉えた映像は、終止がワタシの常識の埒外でした。
ライヤさんが、口から花を咲かせた。
意味不明。
更には現在進行形で街の女たちに貪られています。
意味不明。
何なのでしょうか、この儀式は。
何なのでしょうか、あのシスター服の来訪者は。
魔女と呼ばれた何者か。
――ワタシは彼女に、覚えがあります。
「キアシアさん。荷物は放棄することも覚悟しておいてください」
「イグナ? 何があったの?」
怖々としているキアシアさんに説明して差し上げたいところですが。
ワタシも何が何やらで、教えようがないのです。
ただ、あの魔女が危険な人物であることだけははっきりと認識されました。
億法都市での記憶が蘇ります。
かの街で見えたのは、ほんの一瞬でしたが。
ワタシはあの魔女を。
「貴女を、覚えていますよ」
忘れはしませんとも。
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「んんーん。なーんか、見覚えのある娘なんじゃなぁい?」
魔女は口元を歪めた。
どこで悪事を働いた時だったか。あの赤髪の少女とは、あったことがあるはずだ。
それがどうしてこんなところで再会するのか。
好奇心が魔女を高ぶらせる。
「ライヤが達するまで、もうちょっとかかりそうだし。少し遊びましょうか」




