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起:後 ≪酔漢≫

 扉を出てすぐ、詰所(つめしょ)で目当ての人物を探すと、「今日は非番だ」と教えられた。

 なので陸歩たちは、師匠の自宅へと向かうことにする。

 そろそろ夕焼けが夜闇に変わる時刻である。


 そういえば。陸歩はふと思う。オフの師匠を訪ねるのは初めてだ。

 あの人はいつも、防人(さきもり)として扉の樹の(そば)()めているか、道場で弟子の誰かを見ているかだったから。

 ちゃんと休むんだ――妙な安堵(あんど)すらある。


 師匠の家がある『青珊瑚(あおさんご)通り』はトレミダムでも名高い。

 華美な豪邸、広大な敷地(しきち)の邸宅といったものはあまり見かけないが、一軒一軒が瀟洒(しょうしゃ)で芸術作品のようだ。

 またその全てがターコイズブルーの壁・屋根をして、庭には必ず赤・白・黒・青と色とりどりの薔薇(ばら)を植えていて、わざわざ観光客が見学に来るほどだという。


 陸歩の師匠は一人暮らしだ。

 また無骨な武人だ。

 なのに。


「……意外と庭とか整ってるよなぁ。壁も塗り直したばっかりっぽいし」


 訪れた師匠の自宅は、通りの他の家と比べて遜色(そんしょく)ない。


「まめな方ですから。よく手入れなさってるのでしょう」


「師匠がぁ? 生活力だのよりも優先して筋肉付けそうじゃねぇ?」


「あんた、殴られるわよ」


「では。誰か身の回りを世話してくれる『良い方』がおられるとか」


「聞いたことねぇけどな。っていうか、もしそうなら――ぶっは、どっちが旦那で女房か分かんないな」


「もう殴られちゃいなさい」


 玄関で呼び鈴を鳴らす。

 さして間もなく扉の向こうで足音がした。

 かと思ったら。


「――わっ! びっくりしたぁ」


 思わず陸歩は半歩下がる。蹴破(けや)るような勢いでドアが開いたのだ。

 そして鼻の前に、ビキニに包まれた豊満な、大変見ごたえのある胸部が突きつけられていた。

 さらに一歩後退。

 じろりと見降ろしている目と視線が合う。


「あ……こんばんは、師匠」


「…………、リクホか」


「はい……」


 その目。その迫力。ネズミぐらいなら眼力で殺せるのではあるまいか。

 というか初対面の人間なら失神してもおかしくはない。


 陸歩が師匠と(あお)ぐこの女性、名をマチルダ・ヴィスケス。

 二メートル半近い長身に、隆々とした筋骨を備える女丈夫(おんなじょうぶ)である。

 今はビキニのトップスにハーフパンツというあられもない格好で、惜しげもなく浅青い肌を(さら)していた。


 何が度肝を抜くと言えば、頭部。

 彼女は『海鮫族(グランブルー)』と呼ばれる獣人であるが、その首から上は(さめ)なのだ。人間の身体に、鮫の頭。

 人よりも大きく裂ける口にギザギザの牙が並ぶ様には、捕食者の絶対性が(にじ)むようだ。

 今は瞳にも理性の色が薄く、強く野性を感じさせる。このまま丸かじりされるんじゃと陸歩は一瞬思い、というか。


「師匠、お酒飲んでます?」


「あぁ? 飲んでねぇよ。飲んでたとしても水だよ、水」


「いや絶対酒! 目ぇグルグルしてるもん!」


 これはどう考えても明日の朝に出直すべき。

 陸歩がそう判断し逃げ出すより先、マチルダは彼の襟首をぐいと掴んで宙に釣り上げた。


「いいところに来たなぁ、我が弟子よ。本当にいいところに来た。ちょうど一人で飲み食いするのに飽き始めたところだったんだ」


「や、師匠、オレ、――ふぎぃ!」


 それ以上は問答無用。

 マチルダは陸歩のことを、丸めたちり紙でも放るかのような気兼ねのなさで肩越しに家の中へ投げ込んだ。


 次に少女二人を、酔っぱらった目で見定める。


「…………、イグナかぁ」


「はい。ご無沙汰(ぶさた)しております、マチルダ様」


「……キアシアも」


「こんばんは。お休みのところごめんなさい、先生」


「…………、」


 不意にマチルダはつぶらな目を愛おしそうに細めた。

 かと思えば右腕にイグナ、左腕にキアシアを抱き、両方へ自らの頬をごしごしと(こす)りつけ始める。


「イグナぁ! 大きくなったなぁ!」


「いえ。サイズは変更しておりませんが」


「キアシアぁ! お前ちょっと痩せたんじゃないかぁ!」


「んー、変わってないと思いますけど……」


「遠いところをよく来たなぁ! あぁよく来た! 寒かったろう!」


「いえ。夏ですので全く」


「しっかしリクホはどうした! あの馬鹿弟子、自分は来ないくせに女の子を(つか)いに寄越したのか!?」


「やー、先生、今さっき投げましたよね……」


「まぁウチに入りなさい! お腹空いただろう。

 ……あん? リクホか? 人んちの廊下で何してる。来てたんなら来たって言え」


「師匠あんたさてはもうヘベレケでしょ!」


 このように半ば引きずり込まれるようにして、招き入れられた師匠宅。

 リビングには座卓があって、つまみの皿がいくつかと、既に空の酒瓶が二・三本。

 部屋の調度(ちょうど)には猫の意匠(いしょう)が多く、なんというか、乙女チックを感じる。時計にも猫。カーテンにも猫。グラスにも。


「ほら、座れお前たち。クッションはそこに積んであるから好きに使え」


「んじゃあ、失礼しますけど……。そうだ、お土産持ってきました。モンプって街の、清酒と燻製(くんせい)


「でかした! 今ほどお前を弟子にしてよかったと思った瞬間はないぞ!」


「ははっ、複雑ぅ」


 キアシアは降ろした荷物からさっそく包丁一式とエプロンを引っ張り出し、また土産の燻製も一部を脇に抱えた。

 他にもクレイルモリーのチーズや、ジンゼンの香辛料なども。


「先生、キッチン借りてもいいですか?」


「もちろんだとも! あぁいいなぁ、キアシアはいい(よめ)になるぞ。私に(とつ)がないか?」


「あっはは、考えておきますね」


「よし婚約の前祝いだぁ! リクホ! グラスを持て! お前も飲め!」


「いや、オレは酒は……」


「なにぃ? 貴様、(いやしく)も私の弟子だろう。一杯くらい付き合うのが弟子の心意気というもので、」


「あー、あー! 代わりにイグナがお供しますんで! な、イグナ!」


「はい。どうぞマチルダ様」


 絶妙な手際でイグナはマチルダにグラスを持たせ、酒を注いだ。

 それをぐいと仰いだ彼女は、目に涙すら浮かべながらため息を吐く。


「あぁ、美味い、美味いなぁ……。美味い。

 さぁイグナ、お前も飲んで。私と一緒に飲んでおくれ」


「はい。頂きます」


「一緒に卓を囲ってくれる者があるだけで、どうしてこうも胸が満たされるんだろうなぁ。

 剣の真髄(しんずい)もここにあるような気がしてならんよ」


「や、絶対に無いでしょこんなとこに真髄。酒の席よりもうちょっと奥を探さないと」


 陸歩はため息を吐く。

 普段は凛々しく自他に厳しい師匠も、ひとたびアルコールが入るとこれだ。

 まぁ怒り上戸がないだけ立派だが、笑ったり泣いたり忙しい。

 多分これから酒が進めば、もっと顕著(けんちょ)になるはず。


 キアシアが皿を手に戻ってくる。


「とりあえず簡単なものですけど」


「おぉ! すごくいい香りだ! キアシアは良いお母さんになるぞ! 私の母にならないか!」


「それはちょっと、難しいですかねぇ……お嫁さんでも色々大変そうなのに」


「んまいんまい、これ最高だ! ほらリクホも食べてみろ! イグナも! 酒に合うぞ最高だ!」


 陸歩はもう一度ため息。

 酒の備蓄も十分と見えるし、なかなかハードな夜になりそうだ。

 これも修行か。彼は腹をくくって酒瓶を持ち、師匠のグラスへ並々と注ぐ。


>>>>>>


「ぅ……、うぅ……」


 差し込んだ朝日を(まぶ)しがって、マチルダは夢現(ゆめうつつ)(うめ)きを上げた。

 その声で陸歩も目を覚ます。


 リビングは死屍累々という有様。

 マチルダはソファーで横になり、カーペットではイグナとキアシアが抱き合って毛布に包まり一塊(ひとかたまり)で眠っている。

 散らかった皿や酒瓶もそのまま。


 陸歩が床から起き上って伸びをする頃、師匠も「うぅ……きもち、わるい……」と半身を起こしていた。


「あー……もー……禁酒する。今度こそ禁酒する。あったま、痛いぃ……」


「おはようございます、師匠」


「…………あん?」


 挨拶をすれば、マチルダはたっぷりと時間をかけて陸歩を見つめる。

 その様子はまるで、今の今まで彼がいることを認知していなかったかのよう……いや、間違いなくしていなかった。

 昨晩は酔っぱらっていて、ろくに現実を(とら)えていなかったに違いない。


「リクホ、か?」


「はい。どうも」


 師匠はそれから、現在の自分の服装を確認し。

 見る間に真っ赤となって、慌てて手近な毛布を身体に巻き始めた。


「な、ばっ、お前ぇ! なにしてぇ!」


「何ってこたぁないでしょう。酒盛りに付き合わせたの、師匠じゃないですか」


「は、はぁ!? 私、この格好で!?」


「一番最初っからそれでしたよ。

 弟子の身でこんなこと言うのも生意気でしょうけど。師匠も一応女性なんだから、酔っぱらって半裸で客を家に引っ張り込むような真似はちょっと控えた方が、ぶっ」


 クッションを投げられた。

 陸歩の視界を(ふさ)いだ一瞬の間で、すでに師匠は二日酔いを感じさせない身のこなしで奥の部屋へと隠れている。


 少し待つ。


「――よく来たな、リクホ」


 着替えを済ませてすっかりしゃんとしたマチルダが出て来た。

 そうして腕を組み、師匠の威厳(いげん)を精いっぱい(かも)()しつつ言うのだ。


「ちゃんと毎日、素振りしてただろうな」


 その、健気とでもいうべき様子に、陸歩はつい微笑んでしまう。


「はい、師匠。欠かしたことはありません」


 師弟よりも、なんだか姉弟を感じる。

 それが懐かしくて、彼はもう一度淡く笑った。


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