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結:急 ≪進捗≫

「あー、もー、最っ高っ」


 温泉に(あご)まで()かったキアシアが、黄色い声を上げた。

 白い(にご)りのある湯は柔らかく、指先や身体の末端から疲れが()()していくのが分かる。

 湯殿は傘のような屋根はあるが壁はなく、背の高い生垣(いけがき)で囲われていて、それに(つつ)ましく咲いている紫の花が湯気に触れると驚くくらいの芳香を放ち、これがまた気持ちを洗うのだ。


「もう、(とろ)けそうだわぁ」


「お気に()して何よりです」


 隣ではネルエルが一緒になって蕩けている。


「モンプ自慢の美人の湯ですよ。

 一度入れば肌に(つや)が差し、二度入れば若返り、三度入れば傾城(けいせい)美貌(びぼう)


「あっは。じゃあ出発までに、出来るだけ入らなきゃね」


 キアシアは微笑むが、ネルエルは大真面目だ。


「夕食前、就寝前、朝食前、出発前であと四回はいけますね」


「文字通りの()(びた)りだわね……」


 なら、と御猪口(おちょこ)から口を離したイグナが()ぐ。


「ずっと入ったままの方が手間がないのではありませんか」


「その発想。イグナさんはモンプ人の素質ありですね」


 この街の住人は温泉で食事をして、温泉で眠り、温泉で仕事をするという。

 それはさすがに誇張だが、一部は真実というのだから、キアシアも鼻白む。


「いくらなんでも……湯当たりするでしょうよ」


 だがイグナはまんざらでもない。

 湯には小さな舟が浮かべてあって、その上には御猪口と徳利(とっくり)


「しかし確かに、飲酒は温泉に限りますね。言語化も出来かねるほど美味です」


 イグナがぐいと一杯を飲み干すと、すかさずネルエルが徳利を取った。


「モンプの清酒(せいしゅ)は冷たくてキレがあって、温泉とよく合うでしょう。まぁ、私はまだ呑める歳じゃないんですけどね。

 ささ、イグナさん、もう一献(いっこん)


「いただきます。

 ――あぁ。お酒が温泉を高め、温泉がお酒を高める。相利共生(そうりきょうせい)の理想型とも言えるでしょう」


 可憐な見た目と裏腹な、イグナの豪快な呑みっぷり。

 すでに徳利は空であり、覗き込んだネルエルは、ムと息を吐く。


「おかわり、呼びましょうか」


 新しい湯は、積み上げた岩の隙間から穏やかに吹き出していて、ネルエルはその脇に備えられた鹿威(ししおど)しそっくりの器具の向きを変えた。

 湯を飲む格好になった鹿威しは、やがてこれ以上()め込めなくなると吐き出すために首を(かたむ)け、済めば勢いよくまた上を向く。このとき尻部分が(したた)かに岩を打つ音が合図で、生垣の向こうから新たな船が流れてきた。


 徳利。御猪口。つまみまで。


「さささ、イグナさん。どうぞ」


「あああ、幸福過ぎてエラーが検知されてしまいますっ」


 キアシアは掌を皿にして湯を(すく)い、自身の肩や腕にかけて楽しんでいた。

 その際に肌の変化に気付き、目を見張る。


「わっ、すご。もうツルツルになってる。

 ……リクホのやつ、この街の鍵もらったのよね?」


「はい。(ぬし)様から贈られたって」


「あの男、でかしたわ。もうちょくちょく入りに来ちゃうもんね」


 そうしてキアシアから吐き出される乙女のため息は重い。


「旅してて何がつらいかってさぁ、お風呂事情なのよね。汗かいたり汚れたりしても、毎日なんてとても入れないし。川で水浴び出来ればいい方で、普段は身体を()くのが関の山」


 ネルエルは怖気(おぞけ)に全身を震わせた。モンプの民からしたら卒倒ものだろう。


「そんなの、私だったらとても耐えられません!」


「しかもね、それで困ってるの、あたしだけなの! イグナは汗かかないし……」


「はい。ワタシはそもそも代謝しませんので」


「リクホのやつは全身発火で汚れ焼いちゃえば済んじゃうし……」


「し、信じられない……暴挙ですよそれ!」


「女たる者、男もいるのに汗臭くしとくわけにもいかないじゃない? せめて匂い袋でも持とうかと思ったんだけど、鼻が曲がるってリクホが嫌がるの」


「なんて、なんて……!」


 同情で目に涙すら浮かべたネルエルが、キアシアの手を固く握った。


「キアシアさんっ、モンプの湯、心ゆくまで堪能(たんのう)していってください! 私、身体を洗ってだって差し上げますし、とっておきのマッサージもしますから!」


「え、えぇ? いいわよそんな、自分で、」


「いいえ遠慮なさらず! ほらこことか! ここにもツボが! この湯は豊乳にもいいんですよ!」


「にゃ、にゃはははっ! くすぐったいってばぁ! ぁん!」


 ……そんなやり取りが生垣一枚(へだ)てた先から聞こえてくるのだから。


「生殺しだこと」


 女湯の(かしま)しさとは別、独りぼっちの男湯で陸歩はため息をついた。

 というかあっちの三人は、声の届く範囲に彼がいることを忘れているのでは。陸歩とて、健全な男子であるのだが。


 まぁそれはそれとして、いい湯だ。身も心もほぐれていくよう。

 クレイルモリーを目前にして、一度緊張を解いておくのはキアシアのためだけでなく、自分にも必要なことであったのかもしれない。


 女湯から嬌声(きょうせい)が、また。

 今度のには珍しいことに、イグナも混じっていた気がする。


「さわがしいなぁ」


「あぁ、本当に(にぎ)やかだね」


 湯煙でちっとも気づかなかった、いつの間にか別な客がいた。

 不自然に濃い(もや)の中に自分以外の影を二つ認め、陸歩は恐縮する。


「すみません、あれ、オレの連れでして……」


 言い終わるより先に、強烈な既視感(きしかん)に襲われた。

 

 知っている。

 シルエットしか分からない二人組は、今も絶えず輪郭(りんかく)を変化させているように映るが、そのうちの一方を、陸歩は間違いなく知っている。


「あんた……っ」


「やぁ、ボクだよ。息災かな。よく布教に(はげ)んでいるようで、感心感心」


「あんたっ!」


 神様だ。

 陸歩に権能を貸与(たいよ)した神様。

 姿形(すがたかたち)が湯気に隠れて確かでなくとも、その存在の威光は(まぎ)れもない。

 楽器のような清流のような(さえず)りのような声を、どう聞き間違えというのだ。


「あんた、復活したのか!?」


「一部な。君がいくつか建ててくれた(やしろ)のおかげで、わずかな時間、条件さえ合えば、こうして訪ねてくることが出来るようになった」


「っ、」


 嘘じゃなかったんだ――これが陸歩の正直なところの感想だった。

 実は、社を建てて回って本当に事態が進展しているのか、疑う気持ちがないではなかった。

 進むにしても一体何千基(なんぜんき)何万基を建てる必要があるのかと。


 それが、実際に、こうして。


 陸歩は影のもう一人も気に留める。


「……そちらの方は?」


「おいおい! この子を取り込んだのは君だろう!」


 神様はあきれた口調だが、面白がる風もありありとしている。


「全く、余所(よそ)の神の権能まで抱えて。存外節操(せっそう)のないやつだな」


「……あぁ! ドゥノーの神威!」


 ようやく見当がつくと、その影はこっくりと(うなず)いた。

 神様と比べるとずいぶん小柄で、まるで子どものようで、おずおずモジモジとした様はやっぱり人見知りの子どものようで愛らしい。


「んーっと、それで、神様? わざわざ降臨されて、何か御用で?」


「うむ。三つある。

 まずは、せっかくの温泉地だからな。ボクも湯浴(ゆあ)みに来たのさ」


「は」


「ふふっ、まぁここからが本題だよ。

 二つ目、君を(ねぎら)いにね。よくやってるんじゃないか?」


 面と向かって()められると、さすがに面映ゆい。

 陸歩はつい視線をそらして、ぶっきらぼうな物言いになってしまう。


「そりゃ、やりますよ。そういう契約でしょ」


「あぁ。それでも本当によくやっている。だから、こんなことを言うのはボクも心苦しいんだが、三つ目はお説教だ」


「説教?」


「リクホ、君、神威(しんい)()(しぶ)り過ぎ」


「……と、言いますと?」


「ボクがせっかく与えた能力を、もっと使えって言ってるの。君ときたら、持ち腐れにしてばかりなのだから」


 そうだろうか。


「ちょいちょい使ってますよ。荒事(あらごと)のときとか」


 言うと、深い深いため息を吐かれた。

 陸歩は呑気にも、神様でも(わずら)うことがあるのかと感心する。


「全くお話にならないよ。他の神のところの信託者は、もっと普段使いしてるものなんだぞ」


「普段使いって……この力を、一体何に」


 陸歩の(いただ)くこの神様。

 キアシアが復讐のために呼び出したこの神様。

 その性質はまさしく邪神、破壊神と呼ぶに相応(ふさわ)しく、その権能は滅ぼすことしか知らない。


 (つかさど)りしは、多数を殺す力。

 増乱を防ぐ自浄作用、その法則自体が神格を得たのが、この神様だ。


 ひとたび権能を振るえば、生き物であろうと物体であろうと空気であろうと聖であろうと邪であろうと、場において多数派を占めるかぎり一切の容赦も区別もなく灰燼(かいじん)と化す。

 陸歩に下賜(かし)されたのは、そういう力だ。


 そんな物騒なもの、敵を討つ以外の何に用いるのか。

 そう思うし、実際にそう言うと。


「工夫したまえ」


 神様はにべもなかった。


「君に貸している神威は、直接ボクの威光なんだぞ。君自身が一番最初の社なんだ。神威は使うほどに(みが)かれ、自在となり、そしてボクの存在の(かて)となる」


 聞き捨てならない。


「つまり、復活が早まるって? もっと前に教えといてくださいよ!」


「仕方ないだろう、思い出すことが出来たのは最近なんだ。伝えに来れるほど存在もはっきりしてなかったのだし」


「…………。じゃあ、これからは心がけますよ」


「うん。まずはこの神威の名前を取り戻すところから始めようか。

 あぁ、それからこっちの、ちっこいのだけどね」


 と、神様は隣の影を指差す。そのついでに姿勢が変わった。肩まで湯に入っていたのを腰までにし、つまり胸部をさらしたわけだが、それが陸歩には大変心臓に悪い。

 たとえ(いま)だ、シルエットしか分からなくとも。とても。


「神威の扱いが熟達してくれば、いずれはこいつの力も引き出せるようになるだろう。可哀想に、今のままじゃ口も利けない。リクホ、頑張り(たま)えよ」


 (かすみ)越しだとか、姿が(おぼろ)げだとか、そんなのは一切関係ない。

 神様の輪郭はそれだけで官能で、思わず生唾を呑んだ。

 そういえば、女にも見えるような……。


「――おいリクホ。聞いているのか」


「あの……神様? つかぬことを(うかが)いますが」


「なんだい」


「ここ、男湯ですけど……ということはお二人とも、男性? ですよね?」


 なんだくだらない、と鼻を鳴らされた。


「そんなもの、まだどちらとも定まっていないよ。

 今のうちに男とでも、女とでも、好きな方だと思って存分に眺めておけ。許可する。正しい意味での眼福だぞ」


「いやそんな、恐れ多い……」


 とはいえ目を離すことが出来ない。

 ついチラチラと見てしまうし、陸歩は濁り湯に隠した自分の下半身へ、高まりが生じていくのを禁じ得なかった。


 神様もその視線を楽しんでいるようで、わざとらしく胸を張ったり、思わせぶりばかりしている。


「あ、そうだ、リクホ、」


 一際(ひときわ)強い風が吹いた。

 陸歩はまずいと激しく動揺する。湯気が晴れてしまう。

 あの裸体を(じか)に目の当たりにしたら……自分を抑えておくなんて絶対無理だ。


 辺りが(つまび)らかとなったとき。

 陸歩以外には誰もいない。


「…………、」


 ため息が出た。


()しいことしたかな……」


 女湯からはまた楽しげな声。


 とりあえず、今の出来事は内緒にしておこうと彼は決める。

 神様が()かった湯とか、語り草になっちゃうに決まってるし。

 (あわ)せて陸歩自身も、神様と混浴した不埒者(ふらちもの)と言い伝えられることになったら……。


 うん、黙っとこう。


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