転:序 ≪切傷≫
地元の駅に降りて、オレは張りつめていたものがホッと緩むのを感じる。
「……はぁ」
今日こそが本番だったのだ。
まさに、大学入試を受けてきたところ。
セキュリティやカンニング防止などの理由から、試験は未だに現実実施が普通である。
なので今オレは、東京から帰ってきたところだ。
「…………はぁ」
手ごたえは、あった。
でも不安はぬぐえない。
ライバルが、受験生が世の中にはあんなにいるなんて、ちょっと思ってなかった。
早く帰って休みたい。……いや。
ナユねぇのとこ、行こう。
ナユねぇに会いたい。
そう思って重たい足を引きずり、彼女の部屋まで辿り着くと、やっぱり今日も映画がかかっている。
蜘蛛に噛まれて超人的な能力を得た主人公が、力と責任の間で葛藤する名作。
ただ珍しいことに、ナユねぇはウトウトとしていた。
スクリーンに映ったアクションシーンの激しさとは全く別に、穏やかな寝息を立てていて。
夢を見ているのか、わずかに開いた唇の間からは、何ともつかない言葉が零れている。
無理に起こすこともない。
オレはカプセルに背中を預けて、もう何十回と観た映画を眺める。
入試の自己採点は、まだする気には、とてもなれなかった。
「ん……りっくん?」
目を覚ましたようだ。
「よ」
「学校帰り?」
「んにゃ、受験帰り。入試、受けてきた」
その瞬間ナユねぇから、はぁっと眠気が飛んでいくのが見て取れる。
そして歯を噛みながら、絞り出すように訊ねてきた。
「……東京の?」
「東京の」
「そう……」
沈痛な面持ちを見せる彼女に、オレは努めて明るく、そして軽く言った。
「思ったよりもずっと近かったよ、東京。レールの乗り換えも四回だけだったし。まぁこの街も、腐っても関東圏内ってことだよな」
下手くそか、オレは。
取り繕ってるのがバレバレだ。不恰好なことこの上ない。
ナユねぇも黙ってしまう。
オレはあんまり居心地が悪くて、逃げるように映画へ向き直った。
ナユねぇが、ぽつりと呟く。
「……受かりそう?」
「やるだけやったよ」
オレの答えも、ぶっきらぼうになってしまった。
「…………、」
「…………、」
「……………………、……のに」
「え」
最初それを、映画から出て来た台詞かと思った。
あれ、おかしいなって。
擦り切れるくらい観たのに、聞いた覚えのない言葉だなって。
「……落ちちゃえば、いいのに」
「え」
あんまり信じられなくて、視線をどこへ向けたものか咄嗟に分からず、彷徨ってしまった。
振り返ると、目を伏せて口元を戦慄かせる、ナユねぇ。
「落ちちゃえばいいのに」
「ナユねぇ?」
「どうせまだ、私の身体……とか考えてるんでしょ。そのための大学なんでしょ。
何回も言ったじゃない。『それ』は無理なんだよ。どうせ無理なんだから、無駄なことして時間を無駄にしなきゃいいのに。どうしてそんな簡単なことも分からないの?」
「なんだよ、それ……オレは、別に……」
「そんなこと頼んでないじゃない! やめてって言ってるじゃない! ……なんで、どうして、どうして分かってくれないのかなぁ。無理だってずっと言ってるのに……りっくん、いつまで子どもでいるつもりなの?」
「なんだよそれ……っ」
「夢見がちなのは可愛かったけどさ。もうそろそろ卒業しなよ。……それとも私が映画見せすぎたせいなのかなぁ、りっくんが現実と虚構の区別がつかなくなっちゃったのは」
オレの頭の中は赤とも白ともつかない色になって、グラグラと沸騰する。
とどめになったのはナユねぇの「馬鹿なんじゃないの」という追撃で、自制心なんてものは一片に至るまで吹き飛んでしまう。
「オレはっ! オレがっ! ……っ!」
上手く言葉が出ない。
激情が喉へつかえる。
呼吸の仕方も忘れて、吸うと吐くとがてんでバラバラだ。
「っ、――今までの奴らが出来なかったからって! オレに出来ないとは限らないだろうが!」
「今まで誰にも出来なかったんだから、りっくんだって同じだよ」
つんと余所を向いたナユねぇは、無情に言い放った。
「りっくんは、世界を変えるほどの天才じゃないんだから。ちょっと機械に詳しいだけの男の子。君は、そんなに特別じゃない」
「――っ!」
特別じゃない。
その一言が、壊れるほどにショックだった。
特別じゃない。
その部分だけが文脈を無視して抽出され、胸の中でリフレインし続ける。
特別じゃない。
オレはみっともなくも涙を流し、満身創痍で立ち上がる。
駄々をこねる子どもと同じ仕方でナユねぇを睨みつけたオレは、けれどももうそれ以上は一言も口にせず、部屋を飛び出した。
本当に良かった。それ以上は、腹の内から沸き上がる汚い言葉のどれ一つも、ナユねぇに浴びせずに済んだのだから。
走る間、耳朶に沁みついた最後の嗚咽が、自分のものだったのかナユねぇのものだったか。
そんな取り止めのないことを考えて、どうにか心をやり過ごす。




