結:転 ≪手中≫
斬り落とされた腕の断面、そこに穿たれた孔へ。
魔女は今、鍵を挿した。
「んぁ……っ」
「ちぃっ!」
阻むべく、陸歩は突っ込んだが。
間に合わない。
開錠。
――たちまち世界に荘厳な鐘の音が響く。
ここは月面。頭上には暗黒と無数の綺羅星のみで、太陽の姿はない。
にもかかわらず、さながら雲の切れ間から射し込む日のように、スポットライトがどこからともなく魔女へ注いだ。
光はあまりにも雄大で暖かく、全てを包み込んで慈悲深い。
「嗚呼……っ」
まさしく天よりの恩寵。
魔女は全身に浴び、さらにそれを掴み取ろうとするように、失くした手を伸ばす。
……一際強い輝きが凝固し、腕を形作った。
次の瞬間には魔女は白、いや透明な黄金とでも言うべき、煌めく右腕を挙げている。
思わず、陸歩の足が止まる。
のみならず、後ろへ大きく飛び退っていた。
「なん、ってことをっ!」
その手に見覚えがあったのだ。
眩いあまり、直視も難しい偉大なる者の手。
これまでに幾度か謁見奉り、されど未だその面相も知らない、かの御方。
我らが父であり母であり、理であり希望であり、全であり一である存在。
循内陸歩に羽を担わせた『彼』。
……まさか、『彼』の右腕ではあるまい。
だが魔女のそれは、『彼』と同位同等のもの。
すなわち――神の手だ。
「嗚呼っ!」
なお魔女から閃光が弾ける。
白砂の月面を、ことさらの白で塗り潰さんとするように。
「くっ」
陸歩も目を庇わずにはいられない。
せめて自らの翼で顔を覆ったのは、剣から両手を離さない工夫だ。
刃を正眼に構え、固く防御態勢。
……目くらましの間に、予想した一撃はなかった。
「…………っ」
最大の警戒を払いつつ、ゆっくりと視界を開き、周囲を伺う。
絶句した。
ここは、どこか。
今の今までいたはずの、月の大地ではない。
どころか尋常な景色ですらない。
泉だった。
陸歩は泉に、脛まで浸っていた。
その水は冷たく、一切の曇りがないながらも決して透き通らず、液化した鏡のよう。
しかも、掌の上だった。
巨大な右手。質は大理石に似て彫刻じみて、それでいて指紋までが精妙に描かれており生々しい。
泉はここに溜まり、陸歩は立っていた。
処は天空にあって、見渡すかぎりに雲海。
……この雲が薄紅色で、しかも空が真っ黄色で、光景の全てがまるっきり悪夢で陸歩は一瞬足元が揺らいだ。
否。実際に揺れている。
「っ、おっ、」
剣を下段にし、何事かと目を剥く陸歩。
前方にそびえる五指に注視して……違った。はっと振り返った。
手と同じスケールの、巨大な魔女の表情が、そこに。
「うぉ……!?」
驚愕に身を強張らせつつ、陸歩は咄嗟に左拳を突き出して火炎を放っている。
くぐり抜けてきた修羅場が、反射的に攻撃を選択させたのか。
撃ち込まれた紅蓮は過たず、魔女の顔面へと着弾した。
しかし魔女はけろりと意にも介さない。
「――、――、――」
姿の大きさに反して、小声で何事かを囁き、口角を挙げる。
くすくすとだけは、陸歩にも聞こえた。
忍び笑う声。
くすくすと。
辺りから幾重にも響き、陸歩の背筋をぞっと冷たくする。
「っくそ!」
炎が効かないなら直接剣で……と思うも、足が動かない。
気付けば泉が、本当に鏡に変わっていた。
いや、鏡くらいならば陸歩の力で割れるはず。
だがその固まった水面は、どう足掻いても熱を加えても、一向に抜け出せない。
彼の必死が可笑しいのか。
魔女は、くすくすと。
くすくすと。
「こ、ん、のぉ!」
歯を食いしばれども、戒めは解けない。
……あたかも氷が育つかの如く、鏡が陸歩の脚をどんどん這い上がり始めた。
あっという間に腰まで囚われ、これを割ろうと突き立てた鈴剣の切っ先まで絡め取られる。
のみならず、傍らにも鏡の氷塊が隆起した。
目の前にも、背後にも。
三つの結晶はやがて魔女の姿を模し、陸歩を眺めてやはりくすくすと笑っている。
何かを囁きながら。
「――、――、――」
「離せっ、このぉァ!」
「――、――、――」
魔女の一体が陸歩の頬に手を添えた。触れられた肌がぞっと凍え、彼は息を詰まらせて身震いする。
残る二体は、極光の翼を掴んだ。
「――、――、――」
「かっ、なにをっ!?」
企みは明らかだ。根元から千切ろうというのだ。
全く容赦なく、魔女たちは陸歩の羽を引っ張った。
「やめっ、く、っああぁあっ!」
その苦痛。
爪を剥がされる……その程度では比較にならない。
魂と結びついた神威をもがれるのは、心臓を直接絞られる以上の拷問だった。
「がぁあぁっあああ!」
「――、――、――」
朦朧とする意識の中、陸歩はようやく悟る。
魔女が呟き続ける三節。
それは、ここよりもっとずっと『下』の天地で用いられる、宿敵の死を願う文言。
「が――」
「――、――、――」
己が存在にひびが入る感触を、陸歩は背中に味わう。
ピリ、と肩甲骨の付近から羽が裂けようとしていた。
「――、――、――」
一層の力を、魔女たちが込める。
覗く巨大な魔女が、満足げに相好を崩す。
ついに、神威の翼が、ぶちり……と。
「あ…………」
痛みには陸歩ですら耐えきれず、目には既に光がなく……一斉に砕けた鏡の破片の中へ、どうと倒れ伏した。
その背には、血の染みが、じわじわと……。




