結:承 ≪奇手≫
三十六計逃げるに如かず。
魔女はすぐさま踵を返し、一目散に駆け出す……といっても右腕の欠損と何より失血、それらのせいで足取りはいかにも怪しく、たいした走力も出せないが。
「うっ、ひぃぃ!」
「逃がすかよ」
三枚羽を携えた陸歩が追う。
シルヴィも同時に。いや彼女のその、獣の瞬発力のほうが先んじた。
黒猫は放たれた矢の如く、しかも一歩ごとに一回り大きくなり、ついには虎のサイズにまで成長する。
伴って屈強となった翼で羽ばたきさえして、とうとう魔女の背中に飛びかかった。
「わっひゃぃ!」
慌てて地べたを転がる魔女。
からくも爪と牙を躱し、しかし自ら進んで這いつくばってしまえば、次はもう逃げようがない。
この勢いで傷口から新たに撒き散らした血に、せめて呪いを込める。
「行! っけ!」
周囲の白砂についた無数の赤い染みが、ムクリと起き上がった。
それらは一斉にチュゥチュゥと騒いで四方八方へ逃げていく……赤い鼠の群れだ。
まぬけな何匹かはシルヴィの足にぶつかって、文字通り血相を変えて方向転換した。
が、しかし黒猫は、一瞥も払わない。その視線は常に魔女へと注がれている。
ゴルル、と喉を凶暴に鳴らして。
さすがの魔女も唾を呑んだ。
「あー……ほら遠慮しないで、じゃれなさいよネコちゃん。
ダメ? お気に召さなかった? そう……」
ぱっと炎が辺りを囲った。
陸歩が作った紅蓮の檻だ。
燃え盛る勢いは強く大きく背が高く、彼自身とシルヴィ、そして伏した魔女の三者を固く閉じ込める。
「観念しろよ」
「…………っ」
火炎に照らされた陸歩の表情は影が濃く、ことさら酷薄に見えて恐ろしい。
これ以上なく追い詰められ、魔女は眼帯の下の双眸を激しく泳がせた。
手は。ないか、何か手は。
左腕はまだ付いている。鍵の鞭は使えるが……もはや熟達の剣士と呼んで差し支えない陸歩を相手に、武技で勝負は愚の骨頂であると、すでに散々切り刻まれて身に染みている。
呪術、召喚術、各種魔術。
いずれを浴びせても陸歩は、化け物じみた頑健さで小揺るぎもしなかった。
ついには魔力を直接、至近距離でぶつけてみても、軽く振り払われたのだから。
幻術の類はどうも、黒猫が無効にしているらしい。
失くした右腕は、今や滴る程度の血しか流さない。
やはり先ほど魔方陣を消し飛ばされたのは痛すぎた。
外法によりこの身体は失血死はしないが、この状況をひっくり返すだけの奇跡――例えば陸歩を彼方へ飛ばす転送術とか――を起こす材料が、もうない。
手は。
手はどこに、
「終わりだ」
「っ!」
剣を振り上げた陸歩が迫る。
抜け目のないことにシルヴィはじっと控えたままで、主が万が一取りこぼした場合に備えていた。
致し方なく魔女が、背後の炎壁に飛び込もうと息を止めた、
その時、
何かが逆に、紅蓮を割って飛び込んできた。
「なっ!」
頭上高くを舞う予想外の乱入者に、誰もが気を取られて目を剥く。
超高熱をくぐり抜け、火だるまとなった小さな何かは、一瞬正体が分からない。
小動物。
否。
魔女の、斬り落とされた右腕だ。
持ち主のピンチに、五指を足のように使って駆けつけたのだ。
それは真っ黒に焦げながら、空中で指鉄砲の形を取った。
人差し指を陸歩へと向けていて。
「くぅっ!?」
彼は胸元を押さえて身体をくの字に曲げる。
心臓に走った、まるで鉤爪でわしづかみにされたような痛み。
右腕が放った呪いである。
古来より指差すことでかける魔術は数多く、しかもこれは魔女が編み出したオリジナルで、本人は『死招く手』と呼んでいる。
その名の通り首無し騎士の伝説がモチーフ。頭部を失くしてまじないを高めた件の魔人と同じ要領で、肘から先以外の全てを失った右腕は邪な力をいま極限にし、循内陸歩をすら苦しめた。
風向きが変わった。
魔女が口角を上げて喚く。
「おっそいのよぉ! アタシの手のくせにあんたモタモタ奥手って……、……あんま上手いこと言えてない気がする」
咆哮一つ、シルヴィが迷いなく襲いかかった。
陸歩を苛む宙の右腕を、賢明な彼女は保留にし、魔女を仕留めるべく食らいつく。
だが遮ったのは、やはり右腕。
落下してきたそれはシルヴィの顔面へ張り付き、彼女が嫌がって前脚で擦っても、決して外れない、離さない。
どころか溶けて赤黒い汚泥になり、目も鼻も口も穿たれていない仮面と化したではないか。
一方で呪いが中断され、呼吸を取り戻した陸歩。
「っ、シルヴィ!?」
そんな彼へ、さらに二回り身体を大きくした黒猫が突っ込む。
獣を惑わし操る力でも仮面にはあるのか、主に対してシルヴィは本気の爪を振り下ろした。
陸歩が鈴剣で受け止める。
叩き付けられたあまりの力に、踏ん張る彼の両足は、地面に深く沈み込んだ。
「こ、の、っ! おいシルヴィ!」
声は、届いているのか、それとも。
今度はシルヴィの逆の手が、横薙ぎの一閃を掻いた。
両腕を挙げていたため開いた陸歩の腹に、五本の傷が刻まれる。
「っ! ちぃ! ……ごめんな」
覚悟を決めた陸歩は、仮面に覆われた黒猫の顔に、渾身の頭突きを見舞う。
通常の獣であれば首が千切れるほどの一撃。
シルヴィもたまらず仰け反って呻き、とっさに体勢を戻したところへ。
もう一発、陸歩の裏拳が入る。
「シルヴィ!」
仮面が砕けた。
解放された黒猫は、最後にミァ……と弱々しく鳴き、パッと霧散する。
こうなっては彼女は、ダメージが癒えるまで呼び出せまい。
そしてその隙に、敵は支度を終えていた。
全身を砂と血で汚した魔女が、貧血気味の前傾で立ち、凄絶に嗤う。
「さぁリクホくん。お見せするわ、これがアタシの奥の手よぉ。
使いたくはなかったけど、仕方ないわよねぇ、右手がなくなっちゃったから……右手の代わりに、逆転の妙手を的な……あー、その、やっぱ頭働いてなくて……」
「ゴチャゴチャ、うるせぇ!」
陸歩は左掌に火球を生み出し、投げつけた。
魔女へ着弾したそれは派手に爆散し――しかし、敵の黒いシルエットは直立したまま、健在を物語る。
一秒後、紅蓮が晴れたとき、魔女は左手に一本の鍵を持っていた。
右腕。斬り落とされた断面は、あたかも鉄を塗りたくったかのように固く滑らかに閉じ、しかも。
鍵穴が、そこにはある。
ぞっと、陸歩の直感が逆立った。
「お前、それっ、」
「神の一手を御覧あれぇ」




