承:結 ≪戯言≫
銀の大地に今や、ぽっかりと大穴が開いている。
湖ほどには広く、そして何より、深い。
実は月は、誇張して例えれば卵のように、表面数十メートルより下からは密度が薄く、割ってしまうとこんな風に大きく窪むのだ。
地殻が砕かれ、地層の縞も露わに、遥か地下まで穿たれて。
核さえもが垣間見えていた。
底で沸騰しながら溜まっているのはマグマ、ではなく。魔女たちが『月の髄液』と呼ぶ液体化した絶対零度である。
その青とも透明ともつかないたっぷりの水は、もうもうと冷気を放ち、触れた空気をたちまち凍らせて、あっという間に穴を氷で満たしていく。
サネツグは、縁にしゃがんで、刻一刻と埋まりつつある大穴を覗き込み……。
口と、そして目の位置のもう一つの口、それぞれから白い息を吐いた。
一方で、アインは。
全身を串刺しにされ、この氷結の奈落へ落とされた、アインは。
「「――俺のこの、目の傷はなぁ」」
嘆息とともに、サネツグが呟いた。
二つの口で、二重に。
あるいは交互に。
「「ガキの頃に通ってた剣術道場で、俺は将来を嘱望されてたよ」」
「手前みそながら才能はあったからなぁ」
「剣さえ持てば大人にだって負けなかった」
「ちびっこ剣法じゃすぐに足りなくなって、」
「お師匠も圧剣を教えてくれるようになったんさ」
「「だがよ、俺の他にもう一人、天才がいたんだ」」
「同い年の姉弟子だった」
「天稟の女だった」
「「俺たちは互いに競い、高め合う、よき好敵手だった」」
「あぁ過去形さ」
「彼女を折っちまったのは俺だ」
「ある日、お師匠の留守に俺たちは、真剣勝負をやらかしてな」
「二人して腕試ししたくてウズウズしてたもんでよ」
「「燃えたね、燃えたよ。生涯であれを超えるセッションはねぇ」」
「つっても、本気で斬り合うまではしないつもりだった……んだが……」
「まぁ弾みってやつだわな」
「「彼女の剣で、この傷だ」」
「んにゃ、悪いのは俺」
「避けられるはずの切っ先を避けられなかった俺」
「「だけど……」」
「彼女は自分を責めた」
「彼女は償えない罪を犯した、と思ってしまった」
「見てらんなかったぜ」
「いやその時にはもう見えなかったんだけどな?」
「泣きじゃくる彼女」
「俺の足元で頭を擦りつける彼女」
「「気にすんなって、なんてことないって言ったのに……」」
「結局彼女は、その後、二度と剣を取ることはなかった」
「あれだけの才能が……俺のせいで……」
「彼女を潰してしまったのは、弱すぎたこの俺だ」
「この目の傷は、その象徴だ」
「「俺が弱かったせいで」」
「彼女も、」
「俺の初恋も、」
「脆く砕けてしまった」
「この傷は、その象徴」
「「だからアイン――触れやがったお前は、絶対に、」」
かさぶたのように氷で塞がった穴が――内側から爆ぜた。
突き出すのは塔剣の尖端。
次いで、縁を掴む巨人の手。
本来の身長に戻ったアインが顔を出し、その姿に見合った大音声を張り上げる。
「テんメぇはよぉッ!!
話が長ぇし! 前に聞いたときとエピソード変わってんじゃねぇか!!」
「あれ、」
「そうだっけ?」
ぺろりと舌を二枚とも出し、悪びれもせず笑うサネツグ。
「親父の虐待ってバージョンだったっけ?」
「それとも強盗から妹を庇ったやつ?」
「どっちも違ぇ!」
巨人は大穴を飛び出し、地響きをさせて着地する。
全身の肌を覆う霜を、身震い一つ、払い落して。
見る間に小さくなった。
「獅子の魔獣とじゃれたとかなんとか……ちっ、やっぱ嘘かよ」
再び人間のサイズになると、アインは左手で塔剣を肩にかけるようにし、右手の魔剣で敵を指す。
対してサネツグも、傍らへ手を伸ばし、そこに新たな棘剣が生えて、これを抜いた。
「「せっかくデカくなったのに、戻っちまってよかったんか」」
「あの体格差でテメェにちょろちょろされたら、蚊よりもうざってぇだろうしな。
……で。そりゃ、なんだ」
乱杭歯を覗かせる、サネツグの第二の口。
どう考えても尋常な存在ではない。
この和装の剣士はヒトではないのか。
あるいは、魔女による呪いの賜物か。
サネツグが顎を擦る。
「実は、俺の双子でなぁ」
「おっかさんの腹の中で、兄弟が変なふうにくっ付いちまって、」
アインはがっくりと肩を落とした。
「……もういいわ」
「おいおい、今度は本当に本当だって」
「まぁいいんなら、こっちも訊きたいんだが」
「「お前、なんで生きてんの?」」
「あー? あぁ、ムミュゼの形見のおかげってとこだ」
かつて剣聖が携え、ムミュゼが戦利品として継ぎ、今は羅刹の手にある一振り。
帯びた能力は『斬りたいものを斬る』ことで――実はその刃は、いわゆる概念にすら届く。
全身を貫かれ、死に瀕したアインは、自分を斬った。
自らの、傷を。
魔剣は過たず力を発揮し、主に刻まれた無数の刺し傷だけを切断して消滅させ、命を救ったのだ。
と、いう事情をまさか懇切丁寧に説明はしないが。
サネツグは剣圧から、アインの魔剣に込められたまじないを大よそ察し、息を吐く。
「「だとしても、まさか生きて帰ってくるとは」」
「間違いなく心臓を刺したぜ?」
「デタラメなやつ」
「「……。……なぁそうだ」」
「思いついたんだけど、アイン、お前さ、」
「ジュンナイリクホを見限らねぇか?」
「……あぁ?」
突然持ちかけられて、意味が分からない。
「そんで魔女殿の下に戻れってか?
アホぬかせ、何の未練があって」
「「違う。俺につかねぇかって言ってる」」
「……。……なんだと?」
なおのこと意味不明。
本気で勧誘するつもりなのか、サネツグは棘剣を脇に放りだした。
そして両手を広げて、態度をワクワクさせて。
「俺も、実は考えてたんだ」
「いつまでも魔女さんとこにいても、どん詰まるんじゃないかって」
「「だったら、あの人は斬って、俺が取って代わるのはどうだよ」」
「世界をほしいままにする力を、俺が手にする」
「アイン、お前も一口噛まないか?」
「「待遇は望むままにするぜ」」
「…………」
深く、アインはため息を吐いた。
そのままほぼノーモーションで、刀剣をサネツグの頭上に振り下ろす。
「「おおぉっ!?」」
慌てながらも、十分に余裕をもって躱したサネツグは大袈裟に地面を転がり、落としていた棘剣を掴んで跳ね起きた。
「「交渉決裂かっ?」」
「どうせ今のも全部嘘っぱちだろうがよ!」
「ははっ悪いな、口から先に生まれてきたもんでね!」
「ついつい出任せちまうんだよ!」
叫びつつ駆け、愛刀を叩いて震わせ、また棘を生やす。
アインもまた、肉薄した。
地面に斬り込んだ塔剣はそのまま、壁として置いておき、サネツグの逃げ道をせめて限定しておく。
両者が、交錯。
互いに通り過ぎる。
「っぐ――」
「かっ、」
「ぃ、」
それぞれの左肩の棘が、鳴り響き、赤く染まった。
振り返り、また迫る。どちらも。
刃が、交差。
「「なぁアイン、」」
「黙れ。口八丁は仕舞いにしろや。
テメェも剣士なら――剣で語りな!」
「あらら」
「しかたねぇな」
「「だったらおしゃべりの続きは、お前の死体とするよ!」」




