急:急 ≪願望≫
眼前の光景に膝は萎え、立ち上がることも出来ない。
歯の根が噛み合わずカチカチカチカチ……細かに鳴り続ける。
「こ、こんなの……」
呆然と、キアシアは呟いた。
「もう……どうしろって……」
その胸中にはもはや恐怖などなかった。
純粋な絶望は心を凍り付かせて虚無に似せ、頭には何一つ浮かばない。
扉の樹の背丈を越し、月まで届かんとそびえた魔人の姿は、あまりに悪夢じみて、現実の存在だと理解するのも難しい。
「――――」
否。そのカタチはすでに人にあらず、魔そのもの。
醜悪な肉の塔とでも呼ぶべきそれは、おぞましく屹立する巨大な芋虫だ。
地上からでは見えない、先端に鎮座した頭部にのみ、まだしもゾディオンの面影。
ぶよぶよとした体表には元の名残か、赤黒の棘が散りばめられていた。
骸骨のような腕がわさわさと何本も並び、その肘からは蛾の翅が生える。
「――――――」
世界の終焉が、始まろうとしていた。
その身を縛るものは今や何もない。
限界を超えて能力を酷使したオルトは意識を失い、キアシアに抱かれている。
伴って影の柵は消失し、ゾディオンの咆哮は外界に響き渡っていた。
これより魔は、世界のどこへも行く。
どこでも暴れ、そしてどこまでも侵すだろう。
フェズも力を使い果たして地に伏している。
アインは治療中を襲われ、テオの従者三人が手傷を負ったため、半死半生のまま動けない。
勇者、神託者が最後の希望か。
「……っ、……はっ、」
「かはっ……かっ……」
だが……どちらも立つのがやっとの満身創痍。
敵と比べてしまえばどうしようもなく矮小だ。
魔獣ゾディオンの手に、次々に、黒球が灯った。
これでもう何度目か。
その悪しき力が、たっぷりと時間をかけて漲る様は、あえて恐怖を煽っているよう。
「――――――――ッ!」
放たれる。
一球につき無数に拡散し、幾千の矢と化したそれは、総勢は数え切れるわけもない。
さらに空気にばら撒かれた鱗粉に激しく乱反射するのだから、誰が逃げられよう。
このままでは戦火が街にも降り注ぎ、全ては焦土に――
「オオぉぉっ!」
陸歩が極彩色の翼を広げた。
迸る紫電。神威『凡庸廃絶』。
多を滅する力は、黒き魔力の大半を消失せしめる。
それでも残った数百発を、白炎のテオが空を駆け、片っ端から斬り落とした。
「はっ……はっ! ……くっ!」
これでもう何度目か。
くり返される防戦一方。
勇者の体力もいよいよ残り少なく、足をもつれさせた。
流れ弾の一つが昏睡した住民たちのほうへ。
「く、っそぉぉぁっ!」
自らの翼を燃焼させ、推進力を得るテオ。
そのまま身を呈して魔弾を受け止めた。
「か――」
「テオ!」
駆けつけた陸歩が倒れる彼を抱き留める。
いま聖剣から輝きが失われ、テオの身体もまた消灯し、炎の肉体から当たり前の青年へと戻っていた。
全身の至るところが焼け焦げ、傷だらけの有様で、アインのように風穴が開かなかっただけ運がいいというべきか。
「あ……ぐ……」
「テオ……っ」
勇者は無惨にも痛ましい。
陸歩自身もあちこちを鮮血でしとどに濡らし、纏ったイグナも軋んでいる。
……胸中に、じっとりとした黒が降り始めた。
どうすればいい。
どうすれば。
かつて危機は何度も乗り越えてきたが。今回は、これほどの災厄は。
「――――――ッ!」
再び魔獣が大きく呼吸し、手という手に黒を充填し出す。
次にあれを撃たれれば今度こそ……。
テオが陸歩の肩を強く掴んだ。
「リ、クホ……」
「っテオ!」
「ど、どう、か……神託、者リク、ホ……」
息も絶え絶えに、聖剣を押し付けてくるのだ。
己が命より運命より重いであろう、彼を勇者たらしめるその証を。
「僕は、もう……だか、ら、どうか……」
「馬鹿言え! その剣に選ばれたのはお前だろ!」
「僕は……僕では……」
涙がテオの頬を伝う。
「僕は、僕では、足りなかった……僕は、弱すぎた。
僕では、もう、救えない……っ!
だから! 神託者リクホ! 貴方が! 貴方がみんなを!
そしてゾディオンを、どうか、解放して!」
「テオ……」
人々を助けたい。
あまつさえ、敵までも。
ただその一心で、しかし力がついに及ばなかった。
どれほど悲しいだろう。
どれほど悔しいだろう。
……いや違う。
彼は、蹂躙されようとしている罪なき人々を思って、落涙するのだ。
彼は、暴走し望まぬ罪を重ね続ける敵を憐れんで、嗚咽を呑むのだ。
我が身を刻まれても歯を食いしばった彼は、他人を想えば耐えかねて滂沱するのだ。
その清らかなせせらぎに、陸歩は言葉を失った。
なんて――尊いことか。
彼こそが勇者。
彼こそが聖剣の担い手。
「…………イグナ」
「――はい、リクホ様」
戦闘プロセスへの集中に努めていたイグナが、一拍あって呼びかけに答える。
そのときにはもう主の要望は正しく汲んでいて、命じられるより先に、鎧の胸に錠前を現していた。
魔獣の手に黒が満ちる。
神託者は、告げる。
「ならば勇者。
願え。お前の最善を求めろ。
オレがそれに、最良をもって応えるから……!」
「リクホ……?」
テオの握った聖剣の切っ先を、陸歩は持ち上げた。
そして錠前の鍵穴へとあてがう。
「テオニシウス・バーンハイ・ビヒテンシュタイムっ。
お前は! 何を望む!」
「……僕は、みんなを……っ、……守りたいんだっ!」
深く、深く、神器たる刃が、胸の底までを穿った。
「――Order! Code:Demi-God!」
【key:Arkadion を認証】
高らかに謳うイグナ。
天からは荘厳なる福音が響き、切れ目の入った夜の帳から、朝焼けが世界に差し込んだ。
【Code:Demi-God を受諾。
ライブラリ参照。神域照会。
パターン検索…解釈実行…最適を抽出…表現プランを構築…】
その時、ゾディオンの魔力がとうとう発射される。
弾け回るそれは、先ほどより倍して凶悪で、束の間顔を出した朝を再び闇に塗り潰さんとするようだ。
宙を跳ねる不浄の矢は、何者も区別もなく射抜かんとし、
【当機はこれより、偽神体化を実行します。
I vow eternal love.】
黒の全ては、陸歩の掲げた左掌へと、収束していった。
「――――――――ッ!」
とっくに理性などないだろうに、それでも本能で慄くのか、魔獣が不気味にくねりながら吠えた。
陸歩の手の中、集められたゾディオンの憎悪は、白き炎へと変じていく。
それは暖かく、柔らかく、燃えてはいてもひたすらに穏やかで、何人も傷つけない。
圧倒的なまでの浄化の力。
「あぁ、こんなにも……」
兜の内側で、陸歩は息を吐いた。
「こんなにも、優しいのか、テオ」
彼の装甲もまた白炎となり、極彩色の翼がマントとたなびく。
右手の鈴剣は聖剣を模し、これもまた聖火によって形作られ揺らめいた。
頭上には極光の輪。それを縁取るように鎖が巻きつき、今ここに二柱の神の力が合一したのだ。
左手で燃える火球を、陸歩は、胸に仕舞う。
元は魔人の暗き心だったそれは……愛する者のために全てを捧げた男の一生を走馬燈のように見せ、想いの強さに息が詰まった。
「――……行こうイグナ」
「はい、リクホ様」
羽ばたく。
ブースターを蹴立てる。
神聖なる輝きの体現者となった陸歩は、太陽のように空へ昇り、魔獣の目の前へ至り、額に降りて鈴剣を立てた。
「――――――――ッッ!!」
「……うん、そうだよな。ずっと待ってたんだよな」
柄頭を掌でそっと押し、刃をゆっくりと沈み込ませた。
「――――――――」
「オレが勇者の願いだ。あんたを止めたがってたテオの想いだよ。
待たせて悪かったって、テオが……。
あんたはもう……終わって、休んでいい」
「――――、、、」
魔獣の巨体もまた、白炎に変わる。
それはゆっくりと解けて、サアンタナスの街に注ぎ、蝶とともに風に遊ぶ様は雪片に似て煌びやか。
やがて魔性の全てを剥がされたゾディオンは、ヒトであった頃の姿を見せて、申し訳なさそうに微笑むと。
「――、――。――」
密やかに何かを言い残し、目を閉じて、彼自身もまた光に還るのだ。
迎えるように八つの斜光がひときわ濃く差す。
それはきっと……四つの抱擁、なのだろう。
>>>>>>
住民たちが段々と、重く昏い夢から目を覚ました。
まだしもぼんやりとした彼らが、道端で眠っていた自分を訝しみながら、そこで目撃したものは。
白銀の装甲を纏った極彩色の翼持つ天使が、地上に舞い降りる光景であり、
そして聖剣を勇者の手に返却する姿。
傷だらけのテオニシウス。
傷だらけの天使。
周囲にいくつも広がった焦げ跡もまた、激戦を物語る。
誰もが悟った。
あぁきっと、なにか暗黒のものが街を覆ったに違いない。
ここにいる全ての者の命が脅かされた。
それを神の遣いたちが、人知れず晴らしてくれたのだ、と。
この後サアンタナスでは、長くこの場面が語り継がれ、信仰として代々に渡っていくことになる。




