序:序 ≪夢見≫
すぐに、あぁこれは夢だな、と察した。
なにしろ目の前の街には、扉があまりに多い。
一軒の家の、壁の一辺に、10を超えるドアが備えられている。
のみならず二階、三階にも、同じくらいあるではないか。飾りなのか、実際に開閉するのか。あんなところから出たら落っこちて危ないだろうに。
ドアによっては内側に、また一回り小さいドアが組み込まれたものまであって。
道にもドアが、マンホールの間隔で埋められていた。
路上には意味もなくアーチのように扉が並び立つ。
蝶が盛んに飛んでいる。
よく見ればどれも二羽で一組になっていて、これはもしや蝶番と洒落ているつもり。
我が夢ながら、陸歩は呆れた。
空には巨大な扉が浮かび、その向こうに垣間見えるは逆さまの街。
あちらは、どうやら東京の某所らしい。
高層建築が垂れ下がってこちらの世界にはみ出して、まるで巨大な鍾乳石だ。
陽光が遮られないのかと、そんなことが気になる。
そんなことが気になるくらい、意識はくっきりとしていた。
眠っているのに。夢なのに。
景色は妙に心に残る。
小春日和と呼べる昼下がり、通りは明るく暖かい。
ただしこの扉の街に、自分以外の誰もいなくて、それが少しだけ薄気味悪かった。
と、足の間を黒い毛玉がさっと走り抜け、くるぶしがくすぐったい。
「……シルヴィ」
四歩先で立ち止まっているのは、愛猫だ。
翼を負う背を見せ、どこか艶やかに振り返って見つめてきて、ゆっくりと尻尾を左右に振っている。
首輪には、いやに大きな銀の鈴が下がっていて……はて、そんなものを付けたか、陸歩は訝しんだ。
シルヴィが、また数歩行って、振り返った。
「ついて来いって?」
にあ。
駆けていく黒猫。
陸歩は息を一つしてから、
大股で追いかける。
「どこ行くんだよ?」
にあ。
道を曲がり、路地に入り、石階段を登った。
扉の下部に開けられた、猫用ドアをシルヴィが潜っていく。
陸歩もドアを開け、建物の中に入り、追いかけて、二階に上がって、またドアから出た。
高架に続いていて、これを渡り、下り、別なドアへ。
結構な距離を走った気がする。
途中で道順はあやふやになって、縦横もあやふやになって、壁をも走った気がする。
でも夢だから、と陸歩には納得があり、揺れる黒い尾を追いかけ続けた。
やがて辿り着いたのは、左右を高い塀で囲まれた袋小路。
そんな行き止まりにシルヴィは、前脚をかけて、カリカリとしきりに引っ掻く。
壁は紅色で、板チョコを思わせるデザインで、陸歩は上から下まで眺めて首を傾げた。
「ここがどうかしたのか?」
にあ。
くるりと向き直った黒猫に、あっと気付いた。
首輪の鈴は、鈴ではなかった。
それはドアノブで、シルヴィが顎を突き出して待ち、屈んだ陸歩はこれを果実のように取る。
しげしげと見つめてから、「にあ」に促されて、鍵のように壁に挿した。
ノブが、回る……。
「――――っ」
その先は庭園で、とっさに燃えているのかと錯覚する。
一面に赤い花々が咲き誇り、風にそよぎ、夢の中だから当たり前かもしれないが、ひどく幻想的だった。
宙を舞う蝶は今こそ激しい。
テーブルと椅子が用意されていて、先に誰かが着席している。
極彩色の翼を携えた、誰かの背中がそこにある。
いや。誰か、なんて白々しいか。
誰だかは間違いようもない。
「――ちょっと。待たせ過ぎじゃないか?」
反っくり返ってこちらを逆さに見る『彼』は、彼だけは白く輝き、おぼろげで輪郭も定かではない。
神様。
陸歩からため息が漏れる。
またえらく手間のかかった趣向で登場したものだ。
「待ち合わせてましたっけ?」
「んまぁー、可愛くない。
侮るなよ。君に用事があることくらい、ボクには分かるのさ」
「…………」
「座りたまえよ」
先んじてシルヴィが小走りで行く。
飛び上がって神様の膝に丸くなると、黒猫もたちまち白に染め抜かれ、二者には区別も境もなくなった。
それは例えるなら、河が海へ流れ込んだようなものだろうか。
おずおずと陸歩も、テーブルに向かい、神様の正面に畏れ多くも腰を下ろす。
「さて?」
「えぇ。確かに、お伺いしたいことが」
「うん、聞こう」
陸歩は姿勢を正し、眼前の眩しさから視線を逸らさないよう努め、真っ直ぐ神様に問いかけた。
「神様。貴方の復活が叶った暁には、オレとイグナを元の世界に帰していただける契約でしたが。
その具体的な方法を、教えていただきたい」
どうせ全能者のことだ。陸歩に用があると知っていたように、要望も内容も事前から分かっていたに違いない。
そしてその願いが何のためのものかもまた、悟っているのだろうに、神様はくすくすと訊ねてくるのだ。
「どうしたね。ホームシックにでも罹ったかい」
「いや、オレではなくて……。
那由多を、元の世界に戻せないかと」
彼女と戦うことなど、陸歩には出来ない。
何しろ那由多は、ナユねぇなのだ。
傷つけるなんて、考えただけでも……。
だが彼女は、明確にこちらを敵と定めてしまった。
うんうん、と神様が頷く。
「ならばあの少女は家に帰して、その間に魔女を倒そうという算段か」
「そんなとこで。
……未来でナユねぇがオレに気付いて、どうなるかとかは、分からないですけど」
「まぁ発想としては順当だがね。
しかし世界の行き来は、ボクの復活の成功報酬だよ? 先にやり方を教えろって、それは君、ちょっとずうずうしくはないか?」
それを言われると陸歩も痛い。
さすがに前借り、とはいかないか。
「でも」と神様は続けた。
「願われて叶えないのは、神としてボクも沽券に関わるんだよなぁ。
それに、実は境界というやつは自分自身で突破するよりも、他人に超えさせるほうがだいぶ楽なんだ。つまり君自身が帰るのと誰かを帰すのだったら、後者のほうがずっと簡単ってこと。
そのくらいなら、手付金として伝授を考えないでもない」
「本当ですか……!」
期待の眼差しで身を乗り出せば、肩を竦められる。
「いずれにせよ、もう少しボクを取り戻す必要がある。
やることはもちろん分かってるね」
「はいっ、社を」
「それと、あのイグナとの合わせ技、クヤナギやヨルドンドでやった偽神化。あれはなかなか良かったぞ。人前でやったらさぞ信仰の集まることだろうよ。
この街もちょうど問題を抱えているようだし、一つ住民の面前で派手に解決してみせたまえ」
「は、」
「ほら。機を逃しては面白くない。とっとと行った行った。
そろそろ起きろっ」
突然乱暴に、神様は拳でテーブルを叩いた。
振り下ろされた力はまさに鉄槌、たちまちものすごい衝撃が世界中に吹き荒れ、陸歩も巻き上げられ、天の扉を通って東京に落ちていく。
薄くしか開けていられない瞼の隙間から、映る風景は何もかもが、無数の蝶たちも、ガラス片のように砕けて散って、
「――――ッ」
びくり、と陸歩は、目を覚ます。




