急 ≪公園≫
服にマタタビでも塗してあるのか、と思われるほどのじゃれっぷり。
シルヴィは那由多の膝の上で丸くなり、しきりに頭を彼女の身体へ擦りつけ、聞いたことがないくらい甘い声でゴロゴロと。
この黒猫は、神託者から切り出された神威から生まれた。そういうものだから、やはり、本能か。
世界の根源、全ての神の生みの親、原初神たる那由多。そんな彼女に対しては、無条件の愛慕があるのだろう。
テステクニコは非常に大きい。
その総面積は、他の平均的な街で換算すれば、三つか四つ分にはなる。
巨獣を飼育するためでもあるし、何より多くの公園を持つためだ。
牧場やドッグラン、アスレチック。
本来は動物を伸び伸びと走り回らせる用途であるが、大半が市民の憩いのためにも開放されている。
芝生の敷き詰められた公園。
ボールやフリスビーで遊ぶ犬とその飼い主を眺めながら、陸歩と那由多は共にベンチに腰掛けている。
とはいえ二人の間にはまたきっかり二人分の距離があり、さらに心と態度はもっと離れていた。
那由多は「よーしよし」とまさしく猫なで声で、シルヴィの頭や喉や腹を擦る。
その表情は、陸歩が横目でこっそり伺うかぎり、優しげであり、また楽しげであるが。
「――メッセージ、受け取りましたよ」
彼女の切った口火は刺々しく、寄越す視線も相変わらず険しい。
「ユーリーくんの火傷のやつ」
「……あぁ」
「すごく痛そうだった」
「…………」
当然ながら印象は悪いか、と陸歩は内心で嘆息する。
とはいえあのときユーリー・ゲイトゲイザも、自身の実父を街ごと脅かそうと迫って来たのだ。正当防衛として、あの程度の火傷はむしろ遠慮したほう。
その辺りを言い訳したら、しかし、なおのこと彼女の不興を買いかねない……。
でも、と那由多が続けた。
「ユーリーくんとクランシュさん、五体満足で返してくれましたね。
二人ともあなたたちに、お世話と治療を丁寧にしてもらったって言ってたし……。
だから、それは、どうも」
「えぇ、いえ……。
ユーリー・ゲイトゲイザが知人の息子で。クランシュに至っては、こっちの身内の姉だったから」
答えれば、那由多の顔に不審が浮かぶ。首を傾げてさえいた。
「伝言の内容も、『自分に関わりのある人に手を出すな』って。
ジュンナイさん、本当にそう言ったの?」
「言いましたね。……そんなに疑わしいことあります?
無茶苦茶な要求をしたつもりはないですけど」
「だって……」
抱いていたシルヴィを離した。
黒猫はまだしも名残惜しそうにしながらも、陸歩の元へと戻り、寄り添って那由多をじっと見つめる。
その目を見つめ返して、彼女は、
「ずっと、訊きたかったんです。
ジュンナイリクホさん……あなたは、自分の大切な人を守ろうとしたり。大切な人の大切な人なら、敵でも大事に扱ったり。
なのに、魔女さんを裏切ってムミュゼくんまで殺した、アインって人を仲間にしてたりもして」
ムミュゼとはいうのは誰で何の話だ、と陸歩は眉根を寄せる。
その態度はあからさまで、嘘がなく、那由多も「あぁ知らなかったの」と悟った。
「ねぇ、あなた本当に、悪い人?
それとももしかして……」
そんなことを問われても陸歩も困る。
自ら善人を標榜できるほど自信があるわけではない。
たしかに幾度か人助けした心当たりはあるにはあるが、その倍以上は人に助けてもらった覚えがあるから、所詮は『普通』の範疇だろう。
というか善人を自称したら、そんな輩は如何にも胡散臭く、嘘臭いではないか。
かといって、悪人呼ばわりされる謂れもあるものか。
欲や感情に任せて凶行に及んだことは一度もないと、それは断言できる。
善悪というのなら、魔女の所業こそ糾したい。
質問に質問で返すのはマナー違反だろうか。
「……むしろ、那由多さん、知ってるのか? 魔女がどういうことをやってるかって」
「またいつかみたいに、魔女さんが悪者だって言いたいの?
…………。
私には秘密の、汚れ仕事をしてるとは、聞いてるよ」
ずいぶんとまろやかな表現にして伝えられているのだな、と陸歩は思わず息を吐く。
那由多がムッとしたのが分かった。
「でも必要なことなんだって。私にとっても!
私は、魔女さんを祝福するよ。あの人は私を呼び出してくれた、私の使徒なんだからっ。
それに、私はこの世界の全てに対して、絶対の権利も持ってるんでしょ。原初神だもの!」
「だから……魔女のすることは、全て許される? 君の名のもとに?」
「――うん。そうだよ。
違う? 間違ってる?」
「そりゃあ……、……」
魔女によって苦しめられた人々の、いくつかの例を聞かせてやろうか……。
だが、この世界と那由多の正体を知った今となっては、彼女の言い分を否定するのも些か難しくある。
なにしろこの世は、那由多――というよりナユねぇの物語、想像の産物だ。
作者が自分の作品内でどれだけの悪逆非道を描こうとも、それは正当なことであって、この少女が絶対の権利を持つというのは真実である。
一方で、陸歩の感情は真逆も叫ぶ。
何しろここは紛れもなく現実なのだ。
この空の下、大地を歩き、空気を吸い、実際に見て聞いて暮らして、人々と関わってみれば。
ここは、紛れもなく、現実だ。
誰もが皆、懸命に生きていて、夢を見て、幸福を望んで、愛を育んで。
誰かがほしいままにしていいなんてことは、決して認められない。
「……那由多さん。君は、何がしたいんだ?
君自身はこの世界を、どうしたい?」
「私は……謳歌したい」
那由多の望みは単純にして明快だった。
何もかもが自身の自由になる世界で、自在に描く術をより磨き、閃くままに形作る。
創作者ならば、ごく当たり前の欲求。
それは、善悪というより、好悪に根差している。
そしてこの世界は、未来の彼女の好によって結実したものに他ならず……。
「あなたこそ、リクホさん、目的は何?」
「…………」
貴女の身体を創造すること……などと答えられようか。
遠い未来で自分と貴女は巡り合い、姉弟として時間を共有した……言えようか。
まだ十六歳の少女でしかない那由多は、到底真に受けまい。
しかも彼女は『循内陸歩』も、『自らと同じ世界から来た』という設定の、この物語のキャラクターと考えている節がある。
語ったところで、謀りの作り話と思われるのがせいぜいだ。
「貴女の未来を、救いたくて……」
なのに、口をついて出てしまったのは。
想いが溢れて、零れたからだ。
不覚と言わざるを得ない。
「私の?」
「…………」
「……。そう」
再びの沈黙に、納得はしないまでも立ち上がった那由多は、陸歩を正面から見つめる。
「なら私と来ない?」
「は……」
それは彼女の言うところの原初神の使徒に、つまり魔女の仲間になれということか。
「リクホさんが嫌な人じゃないっていうのは、何となく分かったから。
一緒に行こうよ。私とこの世界を楽しむの。
どう? きっと素敵だよ」
差し伸べられた手を、陸歩はまじまじと見つめる。
あぁなんて強烈な誘惑だろう。
頭の中では既に、この手を取るのに都合の理由を必死に探していた。
ここは那由多について行って、魔女の組織を内部から討とうだとか。
とりあえず那由多の信頼を得るのが最優先だだとか。
いっそこの世界はフィクションと割り切って、那由多の味方になってしまおうか、とか。
しかし。
同時に、脳裏にはこれまで出会った人々が次々に浮かぶ。
キアシア、アイン、師匠やジンゼンのおやっさん、女帝様に妹姫様、その他にも去来する大勢。
あの人たちとの絆は……陸歩にとって、裏切れないほどリアル。
結局、短絡に身を投じる気には、どうしても。
自分に強いて、視線をそらした。
「那由多さんこそ。魔女の元を離れて、オレと来なよ。
あの女は邪悪だ。君を良いように持ち上げて、騙している」
「…………そ」
つい、と那由多は向きを変えて、その背中で決裂を示した。
陸歩は、俯いたまま、彼女の踵だけを見ている。
原初神は空を見上げ、一つ大きく息を吸うと告げた、「帰るね」。
「やっぱり私、未熟な神様なんだな。リクホさんの心一つ思い通りに出来ない」
「――――、」
危うく、オレの心はとっくに貴女のものだ、などと口走りそうになる。
両手は拳を強く握り過ぎて、指の隙間から血が滴った。
「オレは……この世界の一部じゃなくて、君と同じところから来たから」
「でも同じところにはいないんだ。おかしいね」
最後に一瞥だけを寄越す那由多は、
「ま、敵キャラは必要だもんね。
それならリクホさんは、そうやって私を楽しませてよ」
「…………っ」
「じゃあ、またそのうち」
「…………」
彼女が去っても、陸歩は石のように動けない。
その胸中には、掌以上に、どくどくと血が滲む。
シルヴィがどこかへ走っていく、陸歩は動けない。
やがて、黒猫に導かれてイグナとキアシアが駆けてくるまで。
彼は、微動だにも。




