急:急 ≪黎明≫
何の用事だったか、陸歩は森の中にいた。
振り返れば木々の隙間に、宙に浮く島の鈍色がある。
ひとまず一番大きく古いと見える大樹にたどり着いたので、彼はその周囲を何度か回って子細に検めた。
ない。ない。ない。
どんどん落ち着かなくなって、あれ、そもそも何を探しているんだったっけと首を傾げて。
あぁ。扉がないんだと、やっと気づく。
馬鹿か阿呆のようだ。
これはただの老木。
扉の樹でないのだから、扉なんて付いているはずもない。
本当、何をしに来たんだか。
急に徒労感が全身を襲い、その場に腰を下ろした。
すると丸いものが降って肩に当たったのだ。
足元へ転がったそれは果実で、真っ赤に色づき美味そうである。
一口齧り、
うめいた。
とにかく固い。とても噛めない。
歯の方が負けてしまって、口の中が血の味でいっぱいになった。痛い。
なんと犬歯が折れてしまった。
泣きそうになりながら掌に吐き出すと、それは歯でなくて、剣のミニチュアだった。
ふと使い方を思い出して、陸歩はそれを指先でこねるように回してみる。
鈴の音がしたかと思ったら、剣はみるみる大きくなっていって、やがては木の高さも超えて天を衝くまでに――
と、いうところで目が覚めた。
「ん…………」
親方の工房の客間である。
宴会を済ませた一堂はジンゼンへ帰り、陸歩らは自然な流れで招かれたのだ。
川の字に並べた布団。右隣ではイグナが完璧な寝姿をしていて、そのさらに向こうではキアシアが可愛らしい寝息を立てている。
「夢、か……」
妙に生々しく感覚が残っている。
まだ歯が痛んでいた。
舌で口内を確かめるが、もちろん欠けたところなどない。
ちらりと窓へ目をやるが、まだ夜も明けていなかった。
とにかく寝直そうと、もう一度目を閉じたとき。
「…………、何の音だ?」
寝静まって澄み切った空気に、何かが聞こえる。
まただ。勘違いでない。
高く高く響く、音叉だろうか?
小さく微かな音だから、誰も起きるほどではないが。
一度耳についてしまうと、ひどく気になった。
正体を見てやろうというつもりになった陸歩はそっと身を起こし、それをきっかけにイグナも目を開く。
「リクホ様、どうかなさいましたか」
言うまでもなく、気の利くイグナは声を潜めている。
陸歩も眠るキアシアに配慮して身振りだけで耳を示し、また襖の外を指差した。
こっそりと廊下に出た二人はまた耳を澄まし、音を探る。
未だ断続していて、陸歩とイグナは顔を見合わせ、そちらへと向かった。
廊下の端、鍛冶場から明かりが漏れているではないか。
「まだ夜明け前だぜ……?」
そっと戸を開けると、親方の背中があった。
床にあぐらをかいて、ひたすら一心に集中して。
鳴っているのはやっぱり音叉で、どういう意味があるのか、響かせたそれを剣に近づけたり離したりしている。
それから剣を砥石に当て、何往復かすると、また音叉を使った。
「おやっさん」
陸歩が声をかけると、驚いた親方は振り返って、ついで顔をしかめた。
「ばか、オメェ、剣士が工房を覗くんじゃねぇ」
「炉に火なんか入ってないじゃないか。
それに、オレなら平気だよ」
ちっとも意に介さず、イグナを伴って敷居を跨いでくる陸歩に、親方は鼻白みつつも、それもそうかと納得する。
初めて立ち入る工房は大変に面白かった。
巨大な炉があり、金敷があり、グラインダーやプレス機。
床は全て石造りだ。夏だからいいが、冬場はきっと堪えることだろう。
傘立てのような入れ物には金鎚ややっとこ等がギチギチに詰められて、何に用いるのか砂の入った大きな壺もいくつもあった。
だが一番興味をそそるのは、親方の手元であることは言うまでもない。
「何してんの?」
砥がれていた剣。
それは他でもない、陸歩の鈴剣だった。
「あぁ、借りてるぜ。
なんだか、気になっちまってなぁ」
「呆れたなぁ、こんな早朝に。ちゃんと寝ないと身体に毒だよ?」
痛いところを突いたのか、それとも弟子連中にしょっちゅう言われて耳にタコなのか、親方は苦笑いを見せる。
「チコには、内緒にしとけや」
親方が研磨を再開した。
砥石の上を刃が滑る音は淀みなく澄んでいて、音叉と剣の共鳴は演奏のようだ。
知らず傍に座り込んでいた陸歩は、心がどんどん落ち着いていくのを感じ、うっかりするとまた眠りそうになる。
「……そういえば、変な夢を見たよ」
森を歩いたこと。
木の実を齧ったこと。
歯が欠けたと思ったら、それが剣だったこと。
とりとめなく語った陸歩は、あんな夢を見たのもこの街が、昼夜を問わず剣・剣・剣だからかもと思う。
ところがそれを聞いたイグナが、何かすこぶる機嫌が悪い。
「リクホ様。一つお伺いしたいのですが、ワタシを夢に見たことはありますか」
「うん? しょっちゅう」
事実ゆえの即答に、イグナは今度は途端に上機嫌だ。
「ならよいのです」
「そ、そうか?」
最近になって、彼女がさっぱり分からないことがだいぶ増えた。
神の恩恵によって心を獲得したAIが、乙女心を芽生えさせようとしているのだが、陸歩としては男を磨くことを迫られているに他ならず、じんわりとしたプレッシャーである。
また親方はといえば、陸歩の夢にすっかり感心していた。
「あなどれん奴だな。大したもんだ。
この界隈じゃ、身体のどっかが剣になる夢は吉兆だぞ。
オメェ、とんでもない剣士になるのかもな」
「えぇ? たかが夢だよ?」
と言いつつ、陸歩もまんざらでない。
親方も微笑む。
「されど夢だ。
まぁ、今のままだってオメェさんは十分にトンデモなんだろうがよ、神託者様」
「師匠には筋が悪いって、尻を蹴り上げられてばっかだけどね。
おやっさんの方は、弟子に恵まれてるんじゃないの」
「どうだかなぁ」
親方は鼻を鳴らすが。
陸歩にも分かる、情がきちんと見え隠れしている。
「心配なのはチコだがな。アイツ、ちゃんとした仕事してたか?」
「その剣のこと? あー……裸に剥かれたよ」
「あんにゃろう、まだそんなことしてんのか。
服の上からでも分かるようになれって言ってんのによ」
やがて親方の御眼鏡に適うだけ磨き上げられた剣は、絹で丁寧に拭かれ、鞘へと戻された。
親方はそのまま立ち上がって、陸歩とイグナを手招きし、裏口から外へと出て行ってしまった。
二人が適当なサンダルを借りて後を追うと、親方はちょうど中庭への角を曲がるところである。
「おやっさん? どうしたの?」
「ほれ。斬ってみせろや」
鈴剣を渡され、陸歩は途方に暮れる。
斬ってみろって……。
切り株があった。
うず高く積まれた薪があった。
「まさか、せっかくのこの剣で、薪割りしろってこと?」
「他にねぇだろうが」
「えぇ……?」
全く気が進まない。
卸したての剣で初めて斬るのが薪では、とても。
それに。
「こんなことに剣使って、怒られないの? こう、剣士の風上にもー、的なやつ」
「ゴチャゴチャうるせぇな」
その場にどっかりと腰を下ろした親方は、実に面倒くさそうに耳の穴に小指を突っ込んでいた。
「これからいくらでも何でも斬っていくんだからよぉ。薪なんざ屁でもねぇだろうが。
それともオメェ、斬るもの選ぼうなんて猪口才な態度か?」
「いや、そんなつもりは……」
まぁ親方の言う通りだと陸歩は思い直す。
この剣は芸術品のつもりではないのだ。
これから先、必要に迫られれば獣でも岩でも斬らなければならないのだから。
今ここで躊躇っていては、将来でもきっと斬るに二の足を踏む。
「じゃあ、やるか」
さっとイグナが動き、薪の一本を掴んで切り株の上へ立てた。
「どうぞ」
「ありがと」
一呼吸おいて、陸歩は静かに抜刀した。
刃のあまりの美しさに、束の間思考が止まる。
磨き上げられたそれには、はばきから切っ先まで光の筋が通っていて。
陸歩の双眸を写し取り、こちらを見つめ返していた。
大上段、両手で構える。
そうして空気に立てているだけで風が斬られ、雑念が斬られ、辺りを静寂が満たしていく。
陸歩は確信がある。
あぁ、この心境だ。
この魂の在り方。これを果ての果てまで極めたとき、そこにきっと剣士としての高みがある。
「しっ――」
剣の方が導いているようだ。
陸歩はただ誘われるに任せて、振り下ろした。
あまりに鋭い刃は薪の中心を見事に……逸れて、外皮だけをべろりと削ぎ落とす。
こてんと薪が倒れた。
「…………、」
「…………、」
「ぐっ……!」
陸歩、真っ赤。
なお付け加えておくと、剣の切れ味は大したもので、切り株をざっくりと深くまで刻んでいた。
親方は大きな欠伸を漏らしながら言う。
「俺は何も見てねぇよ」
「も、もっかい! 次が本番!」
再びイグナが薪を立て、陸歩は剣を構えた。
「ふンにっ!」
斜めに切れる薪。
斬れたは斬れたが、見栄えはとても……。
「もっかい!」
今度という今度は全く横に外れた。
いい加減親方の目にも呆れが差してくる。
「小僧、オメェ、本当に下手くそなんだなぁ」
「ま、薪割るには軽すぎるんだよこの剣じゃ!」
「何のために鈴ついてんだボケェ!」
「あ、そっか」
さっそく陸歩は剣を回す。
何度か握り具合を確かめて、裏に人が隠れられそうなまで刃の幅を太くし、細心の集中で振りかぶる。
「ふっ――し!」
ついに薪は真っ二つだ。
断面は見事に滑らか、ささくれ一つもない。
イグナが立てる次も、両断。
その次も。
ようやく調子の出て来た陸歩は、にやりと歯を見せた。
「おっしゃ! コツ掴んだぜ!」
「そうかい。ならその山、全部片付けてくれや」
「おうよ!
――おやっさん! おやっさん! オレさ、オレさ! この剣、大事にすっから!」
親方は懐から薬煙草を出しながら、それを聞いて鼻を鳴らす。
「いいんだよ、剣なんざ雑なくらい使い倒せば。
ガタがきたらまた持って来い。すぐに直してやる」
「うん、わかった! ボロッカスになるくらい使う!」
最初の気後れはどこへやら。
次から次へ薪を夢中で割っていく陸歩に、親方はよしと笑う。
「剣の手入れの仕方は、イグナの嬢ちゃんに一通り教えてあるからよ」
「え?」
「はい。伺っております」
「いつの間に……」
「オメェに伝えるよか正確だろ」
それについての異論は全くない。
陸歩の無尽蔵の体力で、休みなく薪が割れていく。
それでも元の数が数であり、これでもやっと四分の一が済んだ程度だ。
「おやっさん! もうちょっとかかるからさ! やっとくから、ちゃんと寝てくればっ!」
「もうちょい、聴かせろやぁ」
親方はもう半分以上まどろんでいて、目もすっかり細め、斬撃の音に心地よさそうに耳を傾けていた。
その優しく緩んだ相好は、己が仕事に一切の妥協を持ち込まなかった者だけが、完成の瞬間に浮かべることの出来る、尊いものである。
「小僧ぉ。今日も火種役、頼むぞぉ」
「へいへい! 任しといてくださいよ!」
朝日が西から顔を出し、ジンゼンを新たな一日が染め上げる。




