序:急 ≪立法≫
「なっ、」
輝く壁。
いや森へ、ユーリーたちのもとへ押し寄せたのは、光の高波だった。
それはすぐに目前まで迫り、全く減速なく通り過ぎると、もっと遠くまでを包んでいく。
「くっ!」
咄嗟にクランシュを抱きしめ、庇うユーリー……を、逆に押し倒すようにして被さったクランシュ。
……しかし光に呑まれても、熱くもなければ痺れもしない。
二人で恐る恐ると起き上がり、周囲を伺えば。
「な……これ……」
空を、冴え冴えと発光する白い円蓋が塞いでいる。
何かが覆ったのだと気付いた、辺り一帯を。下手をすればデニッツ大陸を丸ごと。
白のドームはまるで繭――違った。
それは幾重にも重なり合った、無数の翼だ。
そして雪のように、はらはらと赤と金の羽根が柔らかく降り、宙で舞い踊る。
「クランシュっ、これなんだ、何だと思う!?」
「直前の会話からジュンナイリクホの仕業ということは間違いないかと。
何らかの呪的な効果が予想されますが、現状では情報不足により、推察も十分には出来かねます」
「この羽根、触ったらまずいか……っ?」
だが軽やかなそれは空気の揺らぎにも乗じ、木陰に隠れても避けきれるものではない。
どうしようもなく肌に触れてしまい、ユーリーは慌てて掌で払うが……赤の羽根、金の羽根、いずれにも何の感触もしなかった。
それらは地面に落ちてもなお、軽く静かで、やがては穏やかに積もるのだろうか。
「……、ユーリー。放った虫のいずれとも通信が確立できません」
「空に待たせてある『星塊』のほうは? 今すぐ落とせるか?」
「…………通信エラーが発生。再試行します。……通信エラーが発生」
駄目か、とユーリーは唇を噛む。
内心には焦燥がじっとりと滲み、クランシュの金の双眸はそれを見透かしているようだった。
「こうなっては、今すぐこの場からの離脱を推奨します」
「……いや。まだ、地の利を生かして立ち回れば、」
手遅れだった。
すぐ傍の木の根に、黒猫が一匹、腰掛けている。
「っ」
それが魔性の獣とは一目でわかる。
何しろ背に翼を負い、そのうちの片方は赤で、片方は金。
じぃぃっと見つめてくる両の瞳も同じ配色で、猫は真っ白な牙を見せて一言、
にあ。
それが合図だったのか。
「――――」
極光の翼と光輪を携えた全身甲冑の戦士が、
あたかも始めからそこにあったように、
黒猫とともに、威風堂々と佇んでいた。
その装甲には、襷状に赤と金のライン。
鎧は袖や裾にゆったりとした膨らみを持ち、シルエットはまるでそう、法衣に似る。
手にした剣は刃先を上にして――その刀身は今や刃物でなく、天秤。
誰何するまでもなかった。
ユーリーは歯を噛み、ぱっと左手の鍵穴を向ける。
「ジュンナイリクホ……っ!」
対して陸歩は空いた左手で、雨足を確かめるように、降りしきる二色の羽根に触れた。
「これが視えるか、ユーリー?」
「あぁ!? 目の前がうるせぇよ!」
「……そうか」
黒猫が器用に陸歩の身体をよじ登り、肩に立ち、天秤の皿の片方へと飛び乗った。
もう一方の皿には羽根が赤、金、赤、金……と積もっていき、秤は猫よりもそちらへと傾く。
兜の奥では、陸歩は宣告の重さで、朗々と唱えるのだった。
「この羽根、空を覆う翼はな、法なんだ」
「御託、をっ!」
聞く気はユーリーにはない。
即座に印を連射。
『火』に『暴』を重ねたそれは……しかし舞う羽根へと散り散りに張り付き、印としての用をなさない。
舌打ちを一つ、彼は果敢にも一歩を踏み出した。
遠距離での押印が遮られるなら、相手の頭に触れて、直接、
「――ストップ、ユーリー」
「お、っ!」
クランシュが腰を掴み、その場に押さえつける。
つんのめって、彼女に支えられたまま泳ぐ格好のユーリー。
目と鼻の先では……さっきまで、幻想的に降るばかりだった羽根が宙にピタリと止まり……鋭さをもって、彼らを指していた。
周囲を剣山に囲まれては、さすがのユーリーも冷や汗を流し、蛮勇を振う気にはならない。
「……っ! ずいぶん、悪趣味な仕掛けじゃねぇかっ」
「――法は、犯せば途端に牙を剥く」
告げる陸歩には、熱がない。
あたかも神の言葉を代理する預言者。
高みから俯瞰した声音とでも言おうか。
「この羽根と翼は本来視えず、気付かないものだ。
誰しも日々の中で、頭上を法が覆っていると、意識しないように。
だが……一度犯せば、もう直視せずにはいられない」
犯したな――兜の隙間から差す陸歩の視線は。
激しくはない。
けれど温かくもない。
そこに人間的な色は皆無だった。
ただ赤と金の目で、事実だけを汲み取り、計量しようとしている……。
「……っ」
知らず、ユーリーは息を呑んだ。
代わりにクランシュが「では」と問う。
「貴方が敷いたというその法は、一体どのようなものなのです?
法を謳うのなら是非とも公正さを見せていただきたい。
貴方は果たしてどのような罪で、我々を裁こうというのでしょうか」
これに陸歩はことりと首を傾げる。
「子どもでも知ってたぜ?」
それを確かめ、補強するため、この数日を私塾の運営に費やしたのだ。
肝心なところでイグナが何度も訊ねた、子どもたちへと。
まだ幼い彼らに説くことで、遵守すべき道理として定着させる目論見だったが……その必要すらなかった。
少年も、少女も、当たり前に頷いたのだから。
――お父様とお母様は、好きですか?
「風土も文化も宗教も関係ない。誰もが共有する当たり前の法さ。
そうだろ?
家族は、仲良くするもんだ」
さらに心底不可解そうに続ける――そこに今までの神懸かりはない――本当に分からないという調子で。
何しろ彼自身は、父を尊び、母を敬い、父母から愛されて育ってきた故に。
「なぁ、それってそんなに難しいか?」
嘲る口調ではなかった。
だからこそむしろ、ユーリーの視界は真っ赤に燃える。
「――っ!」
もはや思考の余裕すらない。
篭手から鍵を引き抜き、掌へとただちに挿した。
「クランシュ! 鎧だ!」
「形状や能力は」
「あいつをぶっ殺す!」
「了解しました」
金髪金眼の美女、その全身が解れ、青年を真っ黒に包み込んでいく――




