序:序 ≪帰郷≫
不意打ちだった前回とは違う。
四日も間を開けたのだから、今頃は向こうも相応の備えをしていると見るべきだ。
ユーリーが改めてヨルドンドに舞い戻るにあたり、わざわざデニッツ大陸の遠海を選んで降下したのは、敵陣の只中に飛び込む愚を犯さないためだった。
月面アジトの再建は、それに向いた能力を持つ仲間たちに任せ、ユーリーは『星船』に乗り込んだ。
暗黒の空を行き、青空も過ぎて、海に着水してからはクランシュのCommandを『海船』に切り替え、陸を目指す。
「…………」
海中を進む『海船』――その外観は『星船』とほぼ変わりなく、内装についてもさして変化はない。
だが重力はしっかりと働いているためユーリーもクランシュも浮いてはいられず、一つきりの船室で彼は寝転び、彼女の膝を枕にしていた。
「…………」
手の中で鍵を一本、弄ぶユーリー。
ヨルドンドのものだ。
彼は気付かなかったが前回の去り際、当地の扉の樹を用いたときに、有能なクランシュが気を利かせて掠め取ってきたのである。
これを使えば故郷に帰るに何の苦労もないが、使わない理由については前述の通り。
生まれた街の鍵だが、触るのは初めてだった。
母はユーリーを連れてヨルドンドを離れるとき、鍵を持って行かなかった。おそらくは二度と戻らないと決めていたからだろう。
「…………」
白状すれば、ユーリーは両親の不和の原因を、よく知らない。
当時はそれを察するにはまだ年端もいかず、父母がお互いの態度を冷たくしていく様を、訳も分からず怯えて見守るしかなかった。
ただ、記憶の底のほうで、澱みとなっている光景は。
……ランプでかろうじて照らされた薄暗い部屋で、罵り合う父と母、
……幼いユーリーは隣の部屋から、ドアの隙間でそれを覗き、
……ついに父が手を挙げ、床に母がうずくまる……。
「……ちっ」
すすり泣く母の声が今でも耳にこびりついている。
父の苦々しげな舌打ちは、時おり夢に出るほどだ。
その後の母は、大変な苦労をした。
女手一つで歯を食いしばって、決して弱音も吐かず、息子を育てた。
昼だけでなく夜も働いたのは、やがてユーリーが大人になったときに、ささやかでも蓄えを作っておいてやるため……。
結果として、その過労が原因で、病に負けてしまったわけだが。
だから。
つまりは。
母は、父に殺されたも同然だ。少なくともユーリーはそう考える。
父側の言い分は知ったことではない。
あの親父が父親としての責任、夫としての責任を果たしてさえいれば。
世の所帯を持った男たちが皆、当たり前にするそれを。
それすらも、あのクソ親父は……。
守れない女なら娶るなと言いたい。
守れない子なら孕ますなと言いたい。
あのクソ親父。
「……、……クランシュ」
「はい、ユーリー」
「……船、止まってないか?」
さっきまで背中に感じていた振動が、今はない。
窓の外を見ると……深い海の中にあっては暗すぎて、見た目では進んでいるか分からないが。
こともなげにクランシュが答える。
「はい。すでにデニッツ大陸に接岸しています。浮上しますか?」
そんなこと、普段の彼女なら指図されるまでもなく実行しているはず。
これは、主人の物思いが済むのを、そっと待っていたのに違いない。
余計な気を遣わせたか、とユーリーは嘆息した。
あるいは前回した「帰るのをゆっくりに出来ないか」という相談を、彼女なりに今回叶えてくれたのかもしれない。
「あぁ行こう。頼む、クランシュ」
「了解しました」
……このタイミングでヨルドンドを襲撃する意味が、戦略的にどれほどあるか。
実のところ、はなはだ怪しい。
循内陸歩の一味をこちらから付け狙ったのは、連中が『ドゥジェンス』の痕跡を探している素振りをしていたからだ。
そしてついに、その名を見つけられたのか、不覚にもドゥジェンスは解き放たれてしまった。
今さらに循内陸歩を討ったところで、それでドゥが再び封印されるでもなく、魔女の計画を考えれば真に優先すべきは……。
だが、魔女は笑みを浮かべて「行ってらっしゃいよぉ」と言った。
――ユーリー、お父さんのこと憎んでるんでしょ?
――だったら。たっぷり存分に発散してらっしゃいよ、呪いを。
――それはいつか必ず、貴方の糧になるんだから。
デニッツ大陸は未開部分が断然多く、ヨルドンド周辺も木々が深い。
その中に潜み、適当な幹に背を預けたユーリーは、腕を組んで待つ。
傍らでは地面に片膝をついたクランシュが、じっと街の方角を見ていた。
その目はしかし、眼前を視てはいない。
斥候に彼女の眷属である虫が数百から放たれており、クランシュの視覚は今それらにある。
無数の複眼でヨルドンドを探り、循内陸歩とゴドウィンを捕捉。敵の構えを詳らかにしたのちに攻め込む――
「……。ユーリー」
「おう。見つけたか」
「は……」
何事だろう。
常に簡潔で明確なクランシュが珍しく、本当に珍しく表情を曇らせる。
「申し訳ありません。ワタシには、あの状況の理解ができません」
「はぁ? クランシュにも分かんねぇ状況ってなんだよっ?」
想像もつかず、ユーリーは眉根を寄せた。
循内陸歩とクソ親父め、一体どんな奇手を。
「ユーリー。敵を待つのに……街の子どもたちを集めて絵を描かせるのは、どのような意味がありますか?」
「……はぁ?」




