裏 ≪蘇生≫
月の林は全てが扉の樹。
そのうちの一つが乱暴な勢いで開き、焦燥に息を荒げた那由多が飛び出してくる。
絶句した。
「なに、これ……」
あの美しく静謐で、神秘を湛えた月面の景色が。
これはなんだ。
気味の悪い黄に染まり、おぞましい獣が跋扈した異界。
思わず、立ちくらみが……。
「ナユタ様」
その細い身体を支えたのは、続いて出てきた夜梟人の女狩人、ミリアルドだ。
今回原初神の接待役を仰せつかった彼女は、秋の大陸で那由多とともに山に分け入り、狩猟に興じていた。
そこへ、突如として耳に響いたライヤからの救援要請。
取るものも取りあえず、舞い戻って、今。
左腕の羽毛で包むように抱き、腰に吊っていた皮の水筒を差し出す。
中身は気付けの葡萄酒で、普段は年齢を理由にアルコールを飲まない那由多も、今ばかりは呆然のまま口を付ける。
含んだ瞬間、むせた。
吹き出した赤い数滴が、変わり果てた月の大地に沁み込む。
ミリアルドは少女の背を擦りながら、
「大丈夫ですか? ゆっくり。ゆっくり、落ち着いて深呼吸を、」
「っ」
その気遣いを、那由多が手で制した。
さらには掌がミリアルドの胸をそっと押す。離れろ、と。
梟が三歩下がって控えるのを待って、原初神は。
「こ、のぉっ!」
まだ中身のたっぷりと残る水筒を、目の前の地面に叩き付ける。
癇癪を破裂させたか。
彼女が機嫌を損ねれば、時空さえ歪みかねない。心中でこっそりとミリアルドが緊張を滲ませるが。
そうではなかった。
零れた葡萄酒は……それは本当に葡萄酒か。あまりに赤く、血のように濃く、そしていつまでも尽きない。
流れで続ける赤は、本当に瞬き一回の間に地を満たし、天を染め、この世ならざる生物たちを絡め取って引きずり込む。
ぱんっ、と那由多が合掌した。
世界が身じろぎをする――
気が付けばそこは、以前から知った通りの月面の景色だ。
白銀の砂場がどこまでも続き、空は星々を塗した漆黒。
「よっし! どうだコンニャロ!」
拳を握り、那由多がムンと胸を張った。
誰だか知りもしないが、自分たちの土地を荒らした犯人に、牙を剥き出して。
その創世の力を目の当たりにし、ミリアルドは跪いて頭を垂れる。
「お見事です、原初神ナユタ様」
「うん! 急ごうミリアさん!」
何もかもを元通りにした中で唯一、アジトの城だけが無惨な有様だ。
崩落し、瓦礫の山と化したそれを目指して那由多は走り、そんな彼女の腰をミリアルドが抱いて滑空の速度で馳せる。
わずか十数秒。
城だった場所のすぐ傍に、キャンプが仮設されていた。
大きな天幕が佇み、その下にはベッドが並べられ、横たわっているのは、
「――魔女さん!」
那由多が血相を変えて駆け寄り覗き込めば、魔女ははっきりと口角を上げて、ぎこちなく身体を起こそうとした。
が、途中でベッドに落ちる。
その衝撃がまた傷に障ったのか、魔女の表情が痛ましく引きつった。
「魔女さん!」
「ご、ごめんなさ、いねぇ……ナユタ、様……」
「いいから! 動いちゃダメ!」
ひどい怪我だ。
あまりの深手に、那由多は口を押さえる。
ほとんど裸になった魔女は、しかし巻きつけられた包帯で肌など見えない。全身どこにも無事な箇所がないということか。
特に腹部からはまだ血がおびただしく、シーツまでぐっしょりと濡らしている。
「なんてこと……」
魔女ばかりではない。
並んだベッドにはリャルカも、ライヤも、フェズも。
せめてもの応急処置は済んでいて、彼らのほうは今は昏睡の中にいる。
ユーリーとナース服のクランシュは無事で、仲間たちを甲斐甲斐しく世話して回っていた。
ミリアルドが事情を聞くべく、声をかける。
そして。
ぎょっと那由多は目を剥いた。
一番向こうのベッドに、腰掛けているのは。
「オルトくん……っ!?」
顔の上半分が丸ごとない、オルト。
だが……どうやら息はしている。胸に刻まれた『再』の印が、心臓の代わりとでもいうように拍動して。
この中では彼が一番穏やかであり、ただし何の意思表示もせず座ったまま。
おずおずと、ユーリーが言った。
「目がないから、何も見えてないんです……。耳もないし、といいますか、脳みそがないんで……何にも考えられないみたいで……」
「えぇ……?
い、生きてる、の……?」
「一応、はい。オレの印があるうちは」
魔女が呻いた。
何かを伝えたがっている彼女の口元に、那由多が耳を寄せると、か細く聞こえた。
「ナ、ユタ様……治して、いただ、け、ませんか? 全部、全、員……」
「う、うん。傷はすぐに消すからね。ちょっと準備してから……。でも……」
再びオルトに目をやった。
少女は躊躇う――果たしてあれを治していいものか。
原初神として、この世の全ては己の思いのままになると学び、またその術を会得しつつある那由多。
そんな彼女が、可能であると言われてはいても、絶対の禁忌とする行い。
死者蘇生だ。
死んだ者は生き返らせてはならない。「どんなに悲しくったって、一度亡くなった命は、呼び戻しちゃいけないと思う」と彼女は言う。
それが、如何なる常識をも揺るがせにする原初神をして、決して曲げない理。
生を尊ぶには、死をないがしろにしてはならないと、この若すぎる神は心得ているのだ。
ふ、と魔女は笑った。
「まだ、あれ、は、死ぬ……前、ですから……あたし、と、同じ……。
死の、寸前、で……ユーリーが、止め、てくれて、るんですよぉ……」
詭弁ですらない。嘘だ。
最も敬う神に対してさえ、魔女はいけしゃあしゃあと。
だが、例えどれほど罪深くても、ここでオルトを失うわけにはいかない。それでは計画が既定路線から大きく外れる。
なにより、ドゥジェンスに対抗する札は、どうあっても必要不可欠。
まだしも那由多は迷う素振りだ。
三度オルトを見つめて、あれが果たして生きていると言えたものか、逡巡している。
だから魔女はわざとらしくゼイゼイと息遣いを荒くした。
ついでに身体をガタガタと震わせて。
あたかも、今にも手を施さなければ、危険であるかのように。
「魔女さん!? 大丈夫っ?」
「お願い、致し、ます、わ、ナユタ、様。
あ、たしも、オルトも……もう、そう長くは……」
「わ、わかった……っ!
誰か! 扉の樹から、葉っぱ取ってきて!」
すぐさまミリアルドが用意してきたそれを、那由多は手の中で絞り、怪我人たちの額へ順に雫を落とす。
原初神の祝福、その力はすさまじく――
――残る高弟たちが帰還してくる頃には、誰もが万全以上の体調で、即席の円卓を囲んでいた。
その中には、もちろん、復活したオルトも。
使った力の大きさに、さすがに疲れたのか、眠りこけた那由多。
そんな彼女に肩を貸した魔女が、声のトーンを落として手下たちに告げる。
「みんなぁおかえりぃ。悪いわね、呼び出しちゃって。
それじゃあ会議を始めましょっかぁ。
テーマは――あたしたちの敵の確認と、その対策ぅ」




