結:破 ≪文神≫
彼は、髪はさっぱりと整い、髭も伸びていない。
長きに渡る監禁から帰還した直後とはとても思えない清潔な姿だった。
纏った簡素な部屋着にも汚れや皺は見当たらず、さっき着替えたばかりのよう。
ある朝くつろいでいるところを不意に捕らえられ、時の経過すら許されない深淵の獄に投じられたことを、その身形が示していた。
ただし眼差しだけは、無明の中で育てた憎悪で濁り、封印された期間が決して軽くなどないことを物語る。
何より、この両手が許せない。
ドゥジェンスは顔の高さまで持ち上げて、首を傾げる。
「まずはこの舐め腐ったモン、外せよ。いい子いい子してやっからさ」
左手の篭手。右手の素手。
両方に袋状の拘束具がかけられ、指が握り拳の格好で縛られていた。
彼にペンも持たせないためだ。
手首には大袈裟なサイズの錠前が下がり、外すには当然ながら鍵が要る。魔女の左腕を毛皮のように包む無数の中の、どれかが。
「…………」
要求に、魔女は鍵束をまさぐった。
この数を全て覚えているのか、迷いなく一本を探り出す。
それを、
「あー、っん」
自らの口の中に放り込んでしまった。
ごくり、嚥下。
そしてベェと舌を出し、もはや鍵は腹の底だと嗤う。
対してドゥジェンスは、裂けるように笑み、
「おもしれぇ」
たった一言に込められた、彼の圧力よ。
床が割れ、壁は震え、天井まで戦慄き、リャルカもライヤもフェズも慌てて自身の力を開錠。
その瞬間には魔女は、足元の地図に立てたピンの一つを踏みつけ、裸足の裏から血を滴らせていた。
円を描くように擦りつける。
「――、――、――」
異なる天地の言葉によって、呪いが発動。
地図が濁流の勢いで広がっていく。
それはこの場の全員を呑み込みながら、厚みと精細を帯びていって――本当に世界そのものとなった。
気付けば皆が、青空の只中に投げ出されている。
「……ほーう?」
雲間を落下しながら、ドゥジェンスは遥か下方に大地を見た。
あれこそは彼の故郷、ピオレオ大陸。
向こうでは同じく魔女が重力の手招きに身を晒し、頭から落ちていく。
手下どもは思い思いの方法で飛行し――リャルカは大鴉を呼び寄せ、ライヤは魔法を惜しげもなく使用し、フェズのマントは翼を模す――先を争って魔女を助けに向かった。
その間も、眼帯で隠された魔女の視線は、ドゥジャンスを射抜き続けていて。
白い歯を見せる――彼のほうが。
「はっ。俺の畑で挑もうって、その心意気は気に入った。
ちょっとレクチャーしてやる」
言って、ドゥジェンスは左目を閉じ、歯を食いしばる――そちらの眉の上に、赤水晶の角が生えた。
彼の傍らで力なく錐揉みするのは、頭部を半壊させたオルトの骸。
その血と脳漿が……まるで意思持つようにドゥジェンスの周囲で逆巻き、細かな文字を形作ったではないか。
血文字の綴られる速度はすさまじく、あっという間にこの空全部がびっしりの文章に覆われる。
――瞬きの間に、世界は巨大な掌の上だ。
巨人が水を掬おうと構えた両手。それが石灰岩で模られたもので、それがこの世の唯一の足場である。
それ以外は、静かに凪いだ水面がどこまでも永遠に続き、真っ青な空には太陽が白々と。
明らかに現実の光景ではない。
チッ、と魔女は舌を打った。
三人の高弟は武器を手に、主を背後に庇うように陣形を取り、その頭上を大鴉が旋回する。
石灰岩の右手、その中指に、ドゥジェンスが腰掛けて頬杖を突いている。
隣の人差し指にはオルトが引っ掛けられ、頭から新鮮な血を流し続けていた……尽きぬ泉のように、いつまでも。
「――とまぁ、世界ってのはこうやって書くもんなんだ。
参考になったか、下手くそ」
「……えぇ。相変わらずお見事ですこと、お父様」
魔女の受け答えには、すでに余裕がない。
それに気づいたリャルカが、しぅ、と短く息を吐いた。
「魔女様。ご指示を」
「……時間を、稼いでちょうだい。なるべく長く」
「承知」
蛇が目配せをやれば、ライヤが頷いた。
フェズが自身のベルトへ鍵を挿す。
【――bbBBB,,,BLAZINGGGGGG!!!!!】
少女が紅蓮のマントを背負ったのを合図に、リャルカは槍を、ライヤは棍を、互いの足元へと突き立てて交差を描く。
「っぜぁああぁっ!」
「はぁっあぁぁぁ!」
裂帛に乗ってドゥジェンスの真下から、まるで天へ向かって逆さに落ちる瀑布が如く、緑が怒涛の勢いで立ち昇った。
それは絡み合う荊と蔦であり、一瞬にして男を呑み込み、なお増殖が止まらない。
フェズが飛び込む。
「おぉ、りゃあぁ!」
イメージするのは、心に決めた復讐の相手、ジュンナイリクホ。
彼を闘う姿を思い描き、それをなぞるように獄炎を拳に宿し、仲間たちの魔性の植物を一撃のもとに焼き尽くす。
「どうだぁ!」
パタン、という軽い音。
高弟たちが振り返ればそこに魔女はなく、大判の本が一冊、まさにいま落ちたところ。
「魔女……様……?」
「――もっと従順な女に書き直してやらぁ」
燃ゆる緑の中、変わらぬ落ち着きでドゥジェンスが座っている。
荊は、蔦は、炎は彼の周りで文字列へと還元されて、背中へと結集していく――翼へと。
赤水晶の角の上には、文章で編まれた光輪が浮いた。
その姿は、まるで、
ぱっと本が開いた。
這い出す魔女は息を切らし、全身ともインクに塗れ、蹲ってゲホゲホと口の中の黒を吐き出す。
ドゥジェンスの口笛が甲高い。
「へぇ? いや驚いた、大したもんだ。出て来れるとは思わなかったな」
「……もう、あたしは……あんたの想像に、収まって、ないのよ……」
「なかなかデカいことを言うじゃねぇの」
「えぇ――言うわぁ」
世界に影が差した。
見上げれば太陽が真っ黒に……目を凝らすと、そこを穴に見立てて、何かが捻じ込まれていた。
指だ。親指。
両手の親指が、太陽から突っ込まれ、蜜柑でも割る気楽さで、青空を裂く――
――瞬きの間に、世界は元の広間。
魔女は円卓の上にいて、真っ二つに千切れた地図を踏み、
高弟たちは目まぐるしく変わる現実に、息を切らして膝を付き、
ドゥジェンスは角も翼も光輪もそのままそこに立ち、
床には冷たくなっていくオルト。
堂々と、魔女が謳った。
「何度だって言う。
あたしはもうとっくに、あんたの器を超えてるの」
「いや無理だ」
答えるドゥジェンスに、嘲りの色はない。
それは単なる事実だからだ。
自明の理を告げるのに、誰がことさら唾を飛ばそうか。
「水は泉からしか汲み出せず、石は岩からしか生まれない。
お前は俺より必ず矮小だ。被造物は創造主を超えられないよ、これは神さえ従う絶対だ」
「それはドゥ、あんたの想像力が足りてないからじゃない?」
「……あぁ?」
「気に障った?」
双方が気配を剣呑に高める。
双方が翼を広げ、光輪を戴く。
神威の波動が迸り、城を揺るがし、この激突はおそらく月をも砕く……。
それをはっきりと予感して、ライヤは棍を地面へと突き立てた。
広がる魔方陣は念話の術式。
書き連ねられた名は、声を届ける相手――すなわち、残る高弟八人。
「全員聞こえるなっ!? 今すぐアジトへ戻れ!
魔女様の危機だ――牢を出たドゥジャンスが、『文神』の力を解放しようとしている!」




