承:破 ≪天文≫
ゴドウィンが陸歩たちのことを、「空の孔に興味がある若者」と紹介すると、天文学者の老教授はふんふんと鼻息を荒くした。
どうも、研究の発表機会に飢えていたらしい。
この世界の宗教観では空は、神様の住むところだ。
その詳細を暴こうという試みは冒涜と見なされ、天文学は異端の学問である。
「あちこちの教会からも、邪教だなんだと睨まれてね。ろくに学会も立たん有様で。まぁそもそも、会になるほど同業者がいないんだけど。
本もおいそれと出せないし、一人寂しくこっそり勉強するしかなかったんだが、いやぁ披露させてもらえるなら是非はない」
そう言って教授は、人懐こい微笑みを浮かべる。
ヨルドンド上空の孔を調査するため、ここ数年を費やしてきたという彼は、学を求める人間がわざわざ訪ねて来てくれたことが嬉しくて仕方ないのだ。
「昔はあの孔については、街の人らが蘊蓄を聞いてくれたんだが。それも最近じゃあ、実用的な新事実の発見もめっきりなくなったもんで、関心が買いづらくて。
学者なんざ尊敬が集められなきゃ、すぐに変わり者の爺扱いだよ。なぁ組長?」
ゴドウィンは皮肉っぽく笑って答えた。
「あぁ覚えとくよ。俺はせいぜい、人望が途切れちまわないよう気を配るさ」
「よく言う。妻子に逃げられたのは、ガラクタに夢中になり過ぎたからだろ」
お決まりのやり取りなのか、内容ほど二人に険悪さはない。
教授が自宅兼ラボとしている船舶は大型だった。ゴドウィンを含むこの街の有力者が、彼の研究を有益として出資し、用立てたものだ。
その甲板へテーブルと椅子とティーセットを持ち出し、陸歩たちは茶菓子まで振る舞われる。
三脚に据えた黒板に、教授が連ねる知識は、素人向けによく噛み砕かれていた。
「まず重要なのは、あの孔は街の外からは見えない。
というより、あの孔が観測できる範囲を、ヨルドンドの圏内と定めているわけだが。
――君たちは、星を観察したことは?」
「まぁ、それなりに」
代表して陸歩が答える。
旅の間、方角の確認にたびたび星を読むし、それ以外でも寛いだ時に眺めて風情を味わうことも。
「では、どこからでも見える星と、特定の地域でしか見えない星があるのは知っているな」
そういえばかつてメゼルピスで、特別にたくさんの流れ星を見たことを陸歩は思い出す。
教授はそれを、星の高さの違いによると考えていた。
そう考えると、孔は低い位置にあることになる……。
孔に雲がかかった様子も観測されたことはないから、さらに低空……。
だがそんな低くにあるなら、孔の影が落ちるはずなのに、それもない……。
「オーパーツの損傷と強度を計測して、大よその落下距離を割り出してみたんだが。これがどうも、計算に合わんのよ。ガラスみたいに脆い部品が、落ちてきた後にもそのまま残ってたり」
「なるほど……」
説明される諸々を、陸歩は手帳に書き込んでいく。
板書を写すなんていつ以来だろう。こっちの世界に来てからずっと、見聞きする情報はイグナが記録してくれたから、メモもろくに取ってこなかったが。
今はイグナに頼るわけにはいかない。
椅子に掛け、教授の話も半分に聞き、ぼんやり辺りを見て物思いに耽る彼女には。
やはり、ショックだったのだろうか……。
教授が「つまり、」と結論づけていて、陸歩は我に返って手元に集中した。
「あの孔は、空の一か所が破けている、というのとは少し違うのかもしれない。
もっと複雑怪奇な、空間の歪みとでも言おうか……。
そろそろいい時間だな。全員、裸眼で空を、一瞬だぞ? 一瞬だけ見てみろ」
視線を上げると、吸い込まれるように、孔へ向かう。
夜闇の中、月と程近く隣り合って、ぽっかりと口を開けたそれは、
バンッ、と教授が強くテーブルを叩いて、皆の注目を集めた。
見つめ過ぎないよう、気を引いてくれたのだろう。
「――どうだ。夜なのに、黒いはずの孔がどこか分かったろ。夜空に紛れないんだ。
あの孔にわだかまっているのは、闇でも夜でもない、我々の知らないもっと別な混沌……」
>>>>>>
せっかくだから一緒に夕食でも、と誘われる。
甲板にはお茶の設えに変わって、ゴドウィンがアインと運んできた大きなコンロが置かれ、バーベキューが催された。
相伴に預かりに、街の友人たちが酒や食材を片手にぞろぞろと。
唄や音楽、各々が発見したオーパーツの自慢話も飛び交い、即席の宴会だ。
その盛り上がりから外れた、船の舳先のほうで。
イグナは、食べ物も飲み物も手にせずに、そっと佇んでいる。
「――イグナ」
陸歩が静かに声をかけると。
振り返った彼女は、皿にした両手の上に、壊れた蝶を持っていた。
「リクホ様」
「やっぱ……気になるよなぁ。この街のどっかに、お姉さんが埋もれてるかもしれないんだもんな」
「いえ。……はい」
イグナの前に数体存在した、試作機の痕跡だ。
そのうちの誰とも直接会ったことはないそうだが、きっと肉親の情に似たものがあるに違いない。姉たちが収集したデータを基に開発・改良をされたのが、彼女なのだから。
ワスプだけが廃棄されていたのか。
あるいはヨルドンドのどこかで、今も姉の誰かが、眠っているのか。
「……申し訳ありません、リクホ様。どうにも思考に、ノイズが混じってしまい……。
教授のお話は聞いていましたが、ログに正確でないところがあるかもしれません」
「いいって。オレもノート取ってたから、大丈夫」
息を吐いたイグナは、蝶をポケットへ仕舞った。
再びヨルドンドの景色へ目を向ける。
「……。本当に、ここに姉がいたとしても。他のもの同様、壊れているでしょうね」
「探してみようか」
「いえ。この広さの、しかも物の山の中から探し出すなんて、現実的ではありません。いない可能性も高いですから」
それでも後ろ髪を引かれる風だ。
見知らぬ世界で姉が一人、孤独に朽ちていく様を想う……それは、どんな気分だろう。
陸歩は思わず、イグナの手を握っていた。
握り返してくる、彼女の細い手。
「……いつか。この街の誰かが、もし見つけることがあったら。連絡いただけるように、お願いしてみましょうか」
「あぁ、それがいいな。ゴドウィンさんに相談してみよう」
空には月と無数の星。
そしてこの街にだけ孔があって、いま真っ赤な箒星が、回り込むように下弦を描いて流れていく。




