序 ≪水天≫
まさに眠れる虎を起こしたに等しい。
迫る剣閃はあまりに速く、十重二十重と同時に襲ってくるようにすら。
その刃の軌道は見惚れるほど豊かだ。始祖はどんな体勢からでも打ち込んでくる、どの角度へも打ち込んでくる。
『剣林』クヤナギ。
中央院、扉の樹そびえる本尊にて。
陸歩はいま再び鞘人形、つまり自らの流派の始祖と剣を交えていた。
そしてついに、前回はとうとう覚ますことが出来なかった始祖の夢現を、渾身の一刀にて払うに至ったが……。
まさに、眠れる虎を起こしたに等しい。
思考を巡らせる暇はなかった。
この一瞬を反射で乗り切らねば、次の一瞬へ反射が間に合わない。
だからここからは、陸歩自身の資質、そして培ってきたものが、くっきりと炙り出されることになる。
「っお、!」
攻防が目まぐるしく入れ替わる。
防御のための攻撃、攻撃のための防御も交じり、趨勢はまるで定まらない。
陸歩と始祖は互いに激突と散開をくり返し、そこには舞踏の美すら見出すことが出来た。
始祖が鞘へ、剣を納めた、
、陸歩の目の前に既に斬撃が。
まさに神速の居合一閃。
「くっ!」
一際重い斬撃を、からくも鈴剣で受け止め、陸歩の手が痺れる。
……失着だ。本物の海神流天海剣ならば、自身へ走る衝撃も自在にする。
陸歩の指に微々たる硬直。
その刹那ほどの間に、始祖の刀はもう翻り、首筋をめがけ、
――陸歩はたっぷりと濃密な死の予感を嗅ぎ、また舌先に味わう。
――鈴剣の刀身が魂に呼応して緩み、あたかも水面のように、細波を立てた。
一切の容赦も淀みもなく振り抜かれた、始祖の剣。
ひ、と悲鳴を上げたのは見守るキアシアだ。
イグナも目を見開き、唇を噛む。
刃が陸歩の首を、横一文字に通過した……。
残心する始祖。
その手の愛刀には……曇りなく、白刃の輝きのみで、血の一滴もなかった。
よろけたように陸歩が二歩下がり、剣を構え直す。
「ふぅ――」
その首に、傷はなし。
薄皮一枚すら斬らせてはいない。
握る鈴剣の刀身は未だ水。
それは海洋のように蒼く透き通り、波打ち、循環し、かつ剣の姿を保ち続けていた。
「お見事」
縁側で和尚が呟いた。
長くこの院を預かり、多く剣士を見届けてきた老師をして、ため息を吐かずいられない絶技。
傍目には始祖の刃は、首を両断したようにしか見えなかった。
だがその一瞬、陸歩は上体をわずかに後ろへ逃がしていたのだ。
残像すら描くスウェーバック、またその残像へ反らした体を戻したことで、結果として余人は刃が身体を通り抜けたと見紛う。
それを、流派最強を相手に、やってのけた。
極限の中で、陸歩は辿り着いたのだ。
鈴剣の刃がそれを証明している。
これこそが、極意『水天』。
全ての流れを過たず受け取り、自分自身もそれに逆らわず流れる。
敵の剣が起こす風、圧に乗って身体をそよがせる回避は、『柳』に多く例えられよう。
だが、今の陸歩はそれに留まらない。
まさしく水天。海と空の青が交わる如く、相手の流れに自分の流れを合致させ、あらゆる攻撃を直感で読み取り、合わせて揺らめく。
今の陸歩を斬るには、刀で水を割る術が要される。
「…………」
そして、眼前の相手がその程度の技芸、軽く持ち合わせていることは明らか。
始祖の剣が冴え渡る。
十重二十重、どころではない。
もっと多く、もっと深く、重なり合って閃く斬撃の群れは、鬱蒼とした竹林を確かに描き出した。
そう。呼ぶならば、剣林。
「――っ」
これを陸歩は全て、紙一重で潜り、避ける。
あるいはすり抜けるようにして。
あるいは鈴剣で受け、響いた衝撃を今度こそ手玉に取り、刃に乗せて斬り返す。
始祖の剣の、リズムが変わった。
時に速く、時に遅く。五感を研ぎ澄ませた熟練者でなければ気付きもしないであろう、微細な変調。
そこに一定なものは何もなく、全くの気まぐれ。一閃が振り抜かれる間にも速度を七変させる。
流れを狂わそう、という狙いだ。攻防の手順にノイズが生じれば、攻と攻とがぶつかって、劣る一方が大きくて傷を負う……。
しかし。
陸歩はこれにも、『水天』で応じる。
読みの範疇すら超えた、始祖の変則の剣技にも、惑わされることなく直感を働かせて。
肌に掠らせもせずに躱し……しかし、苦いものに顔をしかめた。
たまらず叫んでいた。
「試して、おられるか!」
実際に声に出したわけではない。
その意を陸歩は、鈴剣に込めた。
始祖は、試しておられる。
果たして、この天海剣の末裔は、真に水天に至ったのか。
襲い来る手数が速かろうが多かろうが調子外れであろうが、その極意を維持し得るか。
水天を割る技を持つだろうに、それを一向に出さずに。
それは、手加減だ。
それは、手解きだ。
師が弟子にすることだ。
かっと陸歩の胸中が燃えた。
水天に攻めの気が交じり、いま、『火天』へと転ずる。
「オレはあんたの教え子じゃないぞ!」
鈴剣が燃えた。
相手の流れに自分の流れを合致させ、自分の攻勢を流し込む。
「オレは! あんたを脅かす者だっ!」
今度、剣林を描くのは陸歩の鈴剣だ。
乱立させる無数の斬撃、その一つ一つが相手の流れを叩く――回避した先を斬る、防御を迂回して斬る――火勢の剣。
……そのとき、陸歩は、始祖の声を聞いた。
実際に鞘人形が口を利いたわけではない。剣に込められた意思だろう。
暖かな声音は、春風のように胸へ入り込み、そっと語り掛けてくる。
「――――」
あぁ、と陸歩は息を吐いた。
「はい……また挑みます」
左の肩に、始祖の剣がそっと触れている。
あれだけ心技体の全てを凝らしたのに……捉えることすら出来なかった。
何の流れも生まない剣技。言うなれば『凪』。
これが流派最強。
その座は、今の陸歩には、なお遠く……。
悔しいとも。
そして悔しいから、また挑める。
悔しさがある限り、何度だって。
「ありがとうございました。
一層、精進します。
だから、どうか、またお手合わせを――」
始祖が微笑むのが分かった。
剣から流し込まれる圧に、陸歩の意識はあっさりと裏返った。




