後:結 ≪消滅≫
これと見定めた建物の屋根の上。
「――――」
位置に着いたミリアルドは、大きく息を吸い込み、呼吸を止めた。
目と耳の邪魔になるガスマスクを外し、脇へ放る。
上着の両袖も乱暴に引きちぎり、取り払って腕を外気に晒した。
その顔は。
首から上が、梟である。
腕は翼が変形したもので、指先まで羽毛が覆う。
夜梟人だ。
その体つきだけでも生粋の狩人と容易に察せられる。
胸部、腰などは豊かな丸みを帯びて女性らしいが、四肢や胴や首元は引き締まり、積み上げた鍛錬と研鑚が濃く滲む。
ブーツを脱いだ。
猛禽の鉤爪を露わにし、屋根をがっしりと掴んで、その場にしゃがみ込んだ。
左手――あるいは左翼――にはめた篭手。
その掌の孔へ、鍵を挿し、開錠。
彼女の手の中へ、身の丈ほどもある巨大な弩が具現した。
また懐から、別の鍵を出す。
「いただきます」
それは金属ではなく、クッキーで、彼女は口へ含んで咀嚼。
嚥下すると――カッと腹の底に、憎悪、敵意、憤怒、あらゆる激情が湧き上がる。
それをミリアルドは、強靭な精神でもって手綱を握り、冷静に努め、せり上がってくるものを喉の辺りに留めた。
「ふ――ぅ」
止めていた息を細く、長く、ゆっくりと吐き出す。
決して吸わない。吸えば肺が膨らみ、胸が動き、狙いのブレに繋がる。
吐くのみだ。自分がただ一点へと凝縮していくを、強くイメージして。
身の内で、黒い感情が暴れる。
気を抜けばその瞬間に脳が破裂しそうだ。
今にもあの戦いに飛び込んで行って、あのガキを殺してしまいたい。
それでもミリアルドは強いて、目に集中を凝らした。
耳に、意識を研ぎ澄ます。
立てた膝に左腕を置き、さらに左手の甲を弩の土台とする、独特のスタイル。
未だ矢も番えていないのに、ミリアルドは照準を、地上でリャルカと斬り結ぶ循内陸歩へと合わせた。
間もなく、蛇が敵の足を止める。
その瞬間を射抜くのが、梟の役目。
「ふ――ぅ」
息を吐く。
照準の中で循内陸歩を追い回す。
すばしっこい相手だが……ミリアルドには徐々に、獲物が次にどう動くか、その呼吸が分かり始めていた。
その息の根、すぐに止めてやる。
目に集中を凝らした。
耳に、意識を研ぎ澄ます。
キリキリと、弩の弦が独りでに張った。
ミリアルドの額の先に何か透明な、力のうねりが収束し、やがて真っ黒な大矢一本へと結晶する。
矢が自ら、装填される。
「――――」
呼気も止めた。
見開いた目。
澄ました耳。
地上では、リャルカの荊が循内陸歩を絡め取る。
――今。
しね。死ね。シネっ。
「射ッ」
わずかに弦が空気を裂くのみ、それ以外はほとんど無音で、大矢が解き放たれる。
その速度は音を追い抜き、光に比肩し、到底不可避。
循内陸歩の卓越した動体視力ですら、感知することが出来たかどうか。
「――っ!」
陸歩の左胸を、漆黒の矢が射抜いた。
よし、とリャルカは思う。
それでいて槍は油断なく構えたまま。
万事、計画通りに運んだ。
ミリアルドの矢は彼女の害意そのもの、殺意を鋭利な形にしたものだ。今宵はそこに魔女のドーピングまで加わっている。
相手の死をひたすら希う一念は、食らえば最悪の呪いとなって、獲物を細胞から自壊させてしまう。
魂に由来する狙撃であるがゆえ、神にすら届く矢だ。
あの魔女が認めた一撃必殺。
「かぁ――っ!」
陸歩が悶える。
あまりの苦しみにうずくまることも出来ないのか、背をそれこそ弓のように逸らして胸を張り、突き立った矢の周辺を両手で掻き毟っている。
決まった。
あれはもう助からない。
リャルカが、槍の穂先を、わずかに下げ、
「がぁ――っ!」
……突如、輝きが周囲を焼いた。
「なにっ」
咄嗟にリャルカは後方へ大きく跳び退る。
何事か。
……循内陸歩の胸の前に、巨大な魔方陣が出現している。
陣の輝きと、呪いの矢。
白と黒が互いを制し、中和し合って、ついにはどちらも消えるではないか。
膝を付き、鈴剣を杖代わりに身体を支え、ぜいぜいと荒い呼吸をする陸歩。
顔は青ざめ、相当に消耗しているが……致死には遠い。
「な、」
リャルカの絶句に無理はない。
それは、陸歩すら意図したところではないのだから。
かつて回路神の神託者、ユノハから刻まれた紋様。
ずっと陸歩の心臓に根差していたそれは、いま呪いの矢を受け止め、身代わりとなって彼の命を守ったのだ。
服の下を確認すれば、行き先を指図し続けた神智文字もないことが分かったろう。
陸歩は、口の端に吐き零した涎を袖口で拭う。
薄っすらと赤いものが混じっている。
ち、と蛇が舌を打った。
「ミリアルド、もう一撃、」
「ダメだリャルカ」
きっぱりと梟が遮った。
クッキーにもたらされた激しさは、残らず矢にしてしまったため、その表情は平静そのもの。
すでに射撃姿勢も解いて、弩を肩にかけていた。
「それは計画と違うだろが」
「……っ」
二発以上は撃たない。そう取り決めて、この街にやってきた。
戦術的観点からリャルカ自身が決めたのだ。一発勝負。二発以上は循内陸歩の神威に『多』と判断され、滅され得るがため。
ミリアルドが肩を竦める。
「それに、追加を撃とうにも、もう鼻血も出ねぇよ。
――敵の増援も出て来ちまったし、旗色悪いぜ」
「……そうか」
リャルカが槍を完全に下げたとき。
パッと飛び出してきた赤髪の少女が、陸歩を庇うように立った。
瞳には、先ほどミリアルドが射ったのにも引けを取らないほどの激情が燃え、主を傷つけられた怒りに殺気を逆立てている。
「……遅参、申し訳ありません。リクホ様」
「イグナ……」
対照に陸歩の表情は、ほっと安堵に緩んだ。
さらに、防護服ガスマスクの長身が独り、剣を携えてゆったりと。
「おうリャルカ、久しぶりじゃねぇの。
ミリアルドに、トエンもか。
お前らなんつー格好してんだよ。この街の空気って、吸うと身体が風船みたいに膨らんじまうんだぜ?」
「……お前、アインか?」
怪訝にリャルカが問い返すと、アインは「おう」と手を挙げる。
「肌からも沁み込んで、破裂しちまうんだとよ。
なぁイグナ?」
今はそれどころではないのです、とイグナが吐き捨てる。
アインが言っているのは彼女が吹き込んだデタラメだ。陸歩に続いて自らも、何の備えもなく出て行こうとした羅刹に、着替えをさせるための方便だった。
神威によってどんな毒も防げるであろう陸歩ならいざ知らず、いかに巨人といえども肺をやられては大事だろうと、配慮してやったのだが。
結果、陸歩を一人で危機に立たせることとなり、イグナは激しく後悔している。
「落とし前は、つけてさせていただきます。リャルカ・エナムガ」
「怖いな」
ふぅ、とリャルカがため息を吐いた。
……本当に、いくら吐いても吐き足りない。
作戦は失敗。
だがこれ以上この戦いに拘泥すれば、当初想定した『最悪』よりも、さらに多くを失うおそれすらある。
ここで高弟が三人も死ぬわけにはいかないのだ。
「悪いが、我々は撤退する」
「逃がすとお思いですか」
「ほう、主の手当てが優先ではない? なら我々も腹をくくるが」
「…………」
憎々しげに黙したイグナは、やがて、蛇へ顎をしゃくって見せる。
意を受け取ったリャルカは、「では」とわざとらしく一礼し――魔女の手下三人は、旋風に包まれて、次の瞬間には消えていた。




