後:承 ≪菌糸≫
バダムクワィンでは防護服とガスマスクが普段着として必須だ。
それらなしには街中さえ、出歩くことがままならない。
ガスを多量に含む空気が粘膜に触れれば大変なことになるし、肌だって極力露出を避けるべき。
気体を厳重に防ぐ装いは、この街が拓かれて以来ずっと続く、定番の伝統衣装とも言えよう。
日常的に用いられる防護服、ガスマスクは洗練され、ある種のお洒落を含むようになってもいる。
流行り廃りだって勿論あり、今時は身体のラインが分からない、着ぐるみのようにダボっとしたものが若者に人気。マスクはゴーグルのレンズの片方を、誇張して大きくしたものが。
そんな街だから、撒き散らした策謀の効果は、まず服の上に出た。
「――見てると腹ぁ減るねー」
上空から奈落穴周辺のバダムクワィンを臨んで、ガスマスクの奥でミリアルドが呟く。
「あれって食えんの?」
「よくそんなつもりになれるな……」
呆れた調子の人影は、首の長い異形の防護服……蛇の亜人、リャルカ。
「街のあの惨状だぞ……むしろ食欲が失せるだろ」
なにせ、茸が毒々しく蔓延している。
道にも家にも、そして人にも。
その発生と生育の速度よ。
誰もが自身の身体から顔を出した茸を不気味がり、怯え、毟ろうと躍起になっている。
そして手からもまた生えて、恐怖を倍に重ねていくのだ。
徐々に街の全てが飲まれつつある。
すでに何人も、顔全体をおびただしい茸に覆われた人が、マスクの吸気口も塞がれ、道端で倒れ痙攣していた。
「地獄のようだな……」
「あー、茸の地獄鍋。リャルカ知ってるか? ジッズの辛い鍋で、美味いんだぜ」
「お前は、本当に……」
リャルカらが立つのもまた茸の上。
一際大きい笠が、奈落穴から吹き上げる蒸気を受けて、宙に漂う。
その中心で、盾を円盤のように回しているのがこの謀の主犯、長い耳袋付きの防護服を着た、トエンだ。
「菌糸は街中に行き渡ったね。あとは待ってればいいかな」
「いや、もう始まったみたいだぜ」
この距離、この高さでも、ミリアルドにはつぶさに聞こえる。
街中に生えた茸たちが、ヒソヒソ、ヒソヒソ、何かを囁いていた。
あるものは隣と話し、あるものは悪態ばかりを吐き、あるものはただ喚いて。
トエンの兎耳が被り物の中で揺れた。
「ありゃ、思ったよりも喋り出すのが早いな。地熱とガスと蒸気のジメジメのおかげかな。環境がいいのかも」
「あん中でウチらの『禁句』を言ってるのを見つけりゃいいんだろ?」
と、ミリアルドは改めてリャルカに問う。
蛇は「あぁ」と頷きつつ、その内心はノイバウンの外気よりも冷えていた。
街を根こそぎ、女子供も巻き込んで……これは言い訳のしようもなく外道働きであり、作戦などと呼べたものではない。
かつて戦場の倫理と道徳に準じていた身として、思うところはあり、恥じるところも大いにあるが。
前回この街で回収したものに、取りこぼしが本当になかったと間違いなく確かめるには、前回よりも凶悪な手段を用いるしかない。
そのことをリャルカは弁え、この悪行も彼が立案した。
火をかけるよりも確実に、『例の物』は抹消しなくてはならないのだから。
「『アレ』にまつわる事柄を知る者があれば、トエンの茸が告げ口する。
ミリアルド、聞き逃すなよ」
「へいよー。
でもよ、家の中はどうすんだ?」
こんな場所にある街だから、建物の機密性はとても高い。
家々にも茸は生しているが、それは屋根や外壁であって、室内にまで押し入ることは出来ていなかった。
が、それこそ時間の問題、とリャルカは思う。
「家族や友人、隣人が苦しみながら戸を叩けば、そうそう見捨てられまいよ」
今も全身を茸に集られた誰かが、自宅か友人宅かのドアをノックしている。
ガスを防ぐバダムクワィン建築を当てにして、非難に必死なのだろう。
内側から扉が開かれた――その家は終わりだ。
「それでも籠城する者があれば、私がここから壁を破る」
言って、リャルカは街へと目を凝らした。
ジュンナイリクホとその連れは、この事態を前に、どうしているだろう。
まさか、とっくに菌の海に沈んだか。
それとも悪運強く、どこかの建物の中に籠って、往生しているか。
奈落穴から噴き出す天然ガスは可燃性。この場所ではあのジュンナイリクホも、軽々に炎を使えまい。
となれば、茸に対処するには、神威、
「きた!」
トエンが回していた盾を止め、東を向いて構えた。
自分たちの立つ巨大な茸、その先の宙へ新たな茸が飛石のように浮かび上がり、その先にもまた。
空に作った足場を、兎が先行して跳ね、リャルカとミリアルドが追う。
「きたよ! こっち!」
「ミリアルド、聞こえるか?」
「あぁ、バッチバチ言ってやがる――トエン止まれっ!」
ちょうどトエンが踏み切った瞬間だった。
目指す次の茸を紫電を襲い、一瞬にして灰燼へと帰す。
すでに戻りようもなく空中へ身を躍らせた彼女は、もはや、落ちるしか、
リャルカの槍が閃き、伸びた。
「ぉわっとぉ?」
蛇のようにトエンの二の腕へと絡みついたそれは、彼女を容易く釣り上げる。
「ありがとリャルカさん」
「いい。それより……」
「うん。茸が消滅してってる。これって」
振り返って、トエンは見た。
リャルカはもっと直接、『彼』と視線が合った。
魔性の茸に満たされた街の中。
極光の翼を負い、光輪を掲げ、燃えるような瞳をこちらへと向ける神の眷属。
「ジュンナイ、リクホ……っ」
その右手の剣に、リャルカは息を呑む。
「トエン、結界を張れ!
ミリアルド、矢を番えろ!」
仲間たちへと叫んだ。
ジュンナイリクホの、あの刃を、本能が畏れた。
彼の鈴剣、その刀身は、今。
極光の片翼を、模す。




