前:転 ≪作家≫
確かに理系ではあるが、陸歩が目指したのは工学畑である。
アルコールランプで炙るフラスコや、色とりどりの溶液が入った試験管を前に、こめかみに手を当てて思案する……人生初めての経験だ。
果たしてこれ、ポーズとして正解か。
そもそもこのシチュエーションは、専門家の監修にかけたとしたら、ちゃんと正しいのか。一応イグナは何も言わないけれど。
少なくとも先方は、ご満悦の様子。
「――あぁ、素晴らしい、素晴らしいです。
その物憂げな表情、完璧……! 魔学の深淵に挑む若き天才そのもの!
いいですね、いいですねぇ、素晴らしいですねぇ!」
「…………」
ガジルの黄色い声がしきりに聞こえるが、陸歩はあらかじめ申し付けられた通り、手元に集中して表情を崩さないように努める。
紙片に羽ペンでインクを走らせていて、本当なら独自の理論式を綴っているのが役としてあるべき姿なのだが、そんなのは無理なので横に広げた参考書をひたすら書き取り。
魔学の深淵に挑む若き天才。
それが陸歩に依頼された役。
セリフなし、観客なし、共演者なしというから舞台に上がったが……こうもガジルに夢中になられて、これでも大変面映ゆい。
「リクホさん、ちょっと、下唇に親指で触れて!
悩ましげに爪を噛んで!」
「…………」
「そぉーう! それぇ!」
「…………」
あの風体でそうはしゃがれると、なんとも。
ガジルと呼んでくれればよい、とこの初老の紳士は言った。
おそらくはどこか他大陸の名家の出なのだろう。本名は呪文のように長く、それは本人も自覚しているのか、笑いながら愛称を名乗ったのだ。
彼が当初声をかけたのは、台本市場を物色していたイグナとキアシアだ。
彼は劇作家であるという。それも、本屋の親父の遜り方を見るに、相当な大先生。
――執筆に行き詰まり、街中を散策していたところだ。
――貴女たちは見たところ、旅人では。
――僕はインスピレーションの気配には敏感と自負している。
――どうか余所の街の話、あれば冒険の話、聞かせてはもらえないか。
丁寧な物腰に、著名人としてはっきりと明らかな素性。
イグナとキアシアは互いに一度顔を見合わせ、警戒は必要ないと結論する。
何より物語を探している今、実力ある劇作家との面識は、出来過ぎなほどの渡りに船だ。
アトリエに招待するガジルに、少女たちはまず仲間との合流を申し入れ、彼を借り切ったカフェへと連れて行った。
……そこでガジルは、一目見るなり、陸歩の元に跪いたのだ。
――僕のいま書いている物語の主人公と、ぴったりの容貌だ。
――貴方を見ていれば続きが書ける。
――大変恐縮だが、どうか演じていただけないか。
――幼馴染の少女の、欠損した四肢を取り戻そうと、奮闘する学者を。
立派な身なりの年上男性に、伏して乞われては陸歩も断れない。
幼馴染の四肢を取り戻す、とかいう設定も、何やら他人事と思えないし。
大作家のアトリエは広く大きく、専用の舞台があって、そこには地下研究室のセットが組まれていた。
白衣を着せられ、これに上げられた陸歩。
ガジルは床に蹲り、溢れるイマジネーションをノートへ書き連ね続けている。
「リクホさん、ちょっと前髪! 掻き上げてみて! 色っぽく!」
「…………」
「あああ、いい! それいい!」
「…………」
元気だなこの爺さん……と、陸歩は小さくため息を吐く。
「その息遣いもいい! 最高!」
そんな興奮に水を差していいものか、と躊躇いながらもキアシアが、横からおずおずと。
「あのぉ、ガジル先生? 話しかけても?」
「えぇ、もちろん。なんです?」
筆は走らせたままだが、スイッチでも切り替えたように落ち着いて慇懃な返事。
あまりの変わり身に少女は多少面食らいつつ。
「実はあたし今、物語を探してるんですけど……猫の尻尾に関係してるやつ」
「ほう?」
興味を引かれたのかガジルは、視線を舞台上の陸歩から移し、キアシアを見る。
それから、イグナの手に抱かれている、有翼の黒猫を一瞥。
「猫の尻尾、ですか。
それは、探されている作品に、どう関わっているんです?」
「それが、全く分からなくて……」
さっぱり要領を得ない話だが、彼は嫌そうな顔もしない。
むしろ本腰を入れてくれるようで、舞台上の陸歩に休憩を持ちかける。
そこでガジルは、客人に茶の一つも出していないことに気付き、準備を始めた。
大先生の支度をふんぞり返って待つのも気後れするので――そこに寝転がったアイン以外――陸歩たちも手伝う。
湯が沸くまでの間。
「猫の尻尾……。
そのものずばりタイトルやモチーフになっていたり、キーワードになった話には、ぱっと心当たりはありませんね」
「そう、ですか……」
「オレたちここに来るまでにも、図書館の街とか、印刷の街とかでも、探してきたんですけど……」
「なんと。そんなに大変な探し物でしたか。
なにか、猫の一歩の他には、ヒントはないのですか?」
それは陸歩たちも何度もキアシアに訊ねたことで、今また彼女は首をひねってうんうんと悩んでいる。
「とにかく、とてつもない傑作……だろう、としか……」
「とてつもない傑作。はぁ。
それは例えば、僕の作品よりも?」
冗談めかしてガジルが訊ねるが、キアシアが困ったように笑ったのを受けて、表情を引き締めた。
「僕もね、演劇の聖地とされるこの街で、トップクラスの劇団に籍を置く身です。
腕前はそれなりと、手前味噌ながら思いますがね」
「あ、すみませんっそんなつもりじゃ、」
「いえいえ。
つまり、そんな僕を明らかに凌ぐ書き手となれば、現在どころか過去1000年を見渡しても、50人はいないでしょう。
……お茶は、後でよろしい?」
手招きする。
アトリエの床の一角は扉になっていて、開けると梯子が降りていた。
その先は、どうやら書庫のようだ。
「これはとても僕には書けない……そう思った台本を、ここに集めてあります。
ガジル爺が敗北を認めた作品群です。
キアシアさん、貴女の求める物語は、もしかしたら、この中に」




