転 ≪物語≫
近頃では、あぁこれは夢だ、とすぐ気付くようになった。
通い慣れた真っ暗闇は、相変わらず、自分の手すら見えない。
夢なら空想した通りの設えになったってよさそうなものを。
キアシアは息つくように、そっと呼びかけた。
「ドゥ?」
――キア。
すぐに漆黒の奥底から、ソプラノが答える。
ドゥジェンス、彼はもしかしたら目の前か。
あるいは背後か、頭上のような気さえする。
表情どころか輪郭も分からない。
とっくに友達の仲なのに、キアシアもドゥも、未だに互いを声でしか知らなかった。
とっくに友達の仲だから、お互いに声音で大よそ察せられる。
「しばらく、待たせちゃった?」
彼の返事に、弾むような喜びを感じたから。
闇の中にずっとずっと一人でいて、今ようやく待ち望んだ友人が来た……のだとしたら。
想像するだけで、キアシアは胸に痛みを覚える。
――うぅん、そうでもない。
――はやいくらいだと思うよ。
「そう?
……あたし、毎日来れればいいのに」
前にこの夢を見たのはいつだったか。上手く思い出せない。
今はこうして意識もはっきりしているのに、ここでの記憶はこの場だけのもので、目覚めた後にはあまり多く持ち越せないのだ。
何をきっかけにここへ誘われるのか。せめてそれさえ分かれば、覚えていられれば。
――キアは、なにか、いいことあった?
「あ、うん。
あのね、あたし今、猫と一緒で。可愛いんだよ」
ドゥは、キアシアの近況報告を楽しみにしている。
囚われの彼にとって『外』の情報は、彼女からもたらされるものだけだから。
ことさら声が弾んだ。
――ネコ。
――キア、ネコ好きなんだ?
――どんなネコ?
「黒猫。しかもね、翼があるの」
――すごい、翼なんて。
――物語みたい。
――いるんだ、そんなの。
「ね。滅多にいないでしょうね。
まだ名前は決まってないんだけど……ねぇドゥ、何かいい案ない?」
――うーん……。
――ぼくなら、神様とか神話とかから、もらってくるかな。
「そうねぇ。縁起よさそうだもんね。
えーっと、例えば……んーっと、」
――猫なら、こんな話があるよ。
そうしてドゥは、猫をモチーフにした御伽噺を、いくつか語り始める。
猫の王様。
猫が足音を失くした理由。
大乱を猫と共に駆ける戦士。
黄金だけを食べる猫。
聖夜と名付けられた猫と、絵描きの男。
間違いなく、ドゥには語り部の才能がある。
口調や速度や抑揚は巧妙にコントロールされ、息継ぎがストーリーのリズムになっている。
台詞は彼自身でなく、本当にその人物が言っているかのよう。
無言すら、次の一節への含みである。
ふとキアシアは、物語へ飛ばしていた意識を手元に戻し、この暗闇に安堵した。つい話に聞き入って、馬鹿みたいに口を開けっ放しにしていた気がする。
しかし次の瞬間には、また御伽噺の中だ。
そして締め括りに、「――っていう、ぼくが考えた、お話なんだけど」とドゥがはにかんで言うのが、お決まり。
――どう、だった?
感想を乞われても、咄嗟に言葉が出てこない。
キアシアはまだ、劇の余韻の中だったから。
「すっご……ドゥ、やっぱり、天才?」
――そんな。
ソプラノにことさら照れが滲む。
――ただ、ここにいると、お話を考えるくらいしか、
――ほかにすること、ない
――だけだよ、
だとしても。
今回のみならず、これまで何十と聞かせてくれた物語も、どれも素晴らしく、全てが新しい。
ドゥが本当に少年か疑うほどだ。
豊富な語彙、洒脱な言い回し。彼は既に、十分な修学を経ているのだろうか。
世に広く出版すれば、たちまち名声を手にしているだろうと、想像に難くない。
あ、とキアシアは思う。
「ねぇドゥ。ここに閉じ込められる前のことって……」
――うん……やっぱり、思い出せない……。
「物語は?」
え、と首を傾げる気配がして、キアシアは咳き込むように続ける。
「物語は? 前から、考えてた? もしかして書いてた?」
――それは、うん。
思い出せない、と言ったにしては迷いのない返答だった。
――だって、
――ぼくは多分、
――鳥が飛び、魚が泳ぐように、
――そういう生き物で、
――生まれたときから、お話を考えてると思うから。
「そっか……じゃあ!
どこか、現実のどこかにも、ドゥの作った話があるかも!」
もしそうなら。大きな手掛かりになる。
彼が書いたものなら、名作に違いない。
そしてドゥジェンスがどこの誰か分かれば、彼がいったい何者に、どこへ閉じ込められているのかも、探れるやも。
そこまで分かれば、きっとこの闇間から、救い出すことだって。
「ドゥジェンスなら、ありふれた名前じゃないもの、探せば必ず……あ、それともペンネームかな……。
ドゥ、ペンネームってある? ありそう?」
――キア、
「っていうか、そうだ、そもそもあたしが起きても覚えてられなくっちゃ……。
なんで忘れちゃうのかなぁいつもいつもいつも! 大事なことなのに!」
――キア。
――ねぇ、キア。
「うん? なにか思いついたっ!?」
――キア。
――キアは、どうしてそんなに……。
――ぼくのために、一生懸命になってくれるの?
「なんでって……」
年端もいかない少年が、どこか暗黒の中に捕まっている。
真っ当な正義感を持っている人間には、それだけで助けようと躍起になるに十分だろう。
はて、キアシアは不思議に思う。
自分は何を――怒っているのか。
「なんでって、ドゥ、貴方ね――」
何にこんなに腹を立てている……わかった。
この賢い少年が、露とも知らないからだ。
真っ当な正義感を持つ人間は、助けてくれるものだと、知らないからだ。
この子は、そんな当たり前も、知る機会を与えられなかった。
まるで、これまで手を差し伸べてくれる人間と、会ったこともないようじゃないか……。
さらに悪いのは、この賢い少年が、露とも知らないのだ。
キアシアが、なんで一生懸命になるのか。
「友達だから、だよっ」
――……ぼくと、キアが、友達だから?
「そうだよ! 友達は、なんでは無しに、助け合うものだよ!」
――。
友達の意味も正しく知らなかったなんて。
子どもは誰だって、そんな境遇と、絶対に無縁でなくてはならない。
ならないのに。
キアシアは悲しく、腹立たしい。
「きっと、必ず、見つけるからね! ドゥ!」
――キア。
――もう一つ、ネコのお話があるんだ。
「え、ね、猫?
あ、うん、今はそれよりペンネーム……、」
――あのねキア。
――ネコの尻尾はね、
――




