承 ≪黒猫≫
あらゆる箇所が書棚であるミクストンは、全域で厳しく火気を制限している。
そのため陸歩たちは街を出て、野をしばらく進み、適当な雑木林をキャンプ地とした。
火は不可欠だ、とはイグナが主張した。特に裸火。
パチパチと穏やかに爆ぜる焚火を、四人と一匹は囲む。
暦は箙の月も終わりに近づき、レドラムダ大陸の冬は本番間近。
毛布を身体に何重にも巻き付け、手を炎にかざしてちょうどいい。
地面に敷いたオリエンタルなラグ。
靴も篭手も脱いだ陸歩。重ねたクッションに体重のほとんどを預け、手にした巻物を真剣に見つめる。
参加者の全員が、獣の頭を被った社交界の物語。
読み進めるたびに、右端の一行が蛇のようにスルスルと逃げ、左端に新たな一行がサァっと降りた。
文字を綴るのがインクでないからだ。
極小ナノマシンの群れ、ワスプだ。
ミクストンで一度に持ち出せる冊数には限りがあった。
何往復もするのはさすがに面倒。
そこでイグナが機械的な速読で文章を記憶し、こうして白紙の上にそれを再現することで、数百冊を借りたと同じにしたのだ。
「…………」
陸歩は、その一節を、何度となく読み返す。
上手く意味が取れなかったから。
誤読したか、誤字が交ざっているのかとも。
ここまで主人公――私に対して懇切丁寧だった羊頭の案内人が、全く唐突に、素振りから親しみを失くした……。
「――そう。彼のその態度に、貴方は戸惑います」
焚火の向こうで、イグナが囁く。
イーゼルに掛けた魔具の竪琴が、独りでに震え、弦が重く響いた。
自分のラグに寝転がったアインが、水煙草の煙を長く吐き出す。
「そして気付くのです。その戸惑いが、彼へではなく、羊へのものだと。
彼は無害で優しい人物だ――そう言い切る根拠は、そういえばどこにもありません。
単に彼が羊の顔をしてたから、そのように思い込んだだけ」
「…………」
「気付くのです。
誰もが何らか、獣に扮している。
貴方だって獅子の頭を被っている。
各々、その『役』で振る舞っている。
でもその下は? 獣の下に、それぞれが、どんな本性を隠しているか……」
「…………」
ぞっと肌が粟立った。
そのとき主人公が――私が感じた怖気。
陸歩は、沸き上がる不安に息を詰まらせながら、それをじっと直視した。
目はいつの間にか、紙面でなく、焚火を見ていた。
揺らめく炎の中に、物語が景色となって、浮かんでは消えていく。
羊の下の顔……。
思い馳せるのも、恐ろしい。
素顔という混沌を、彼は、誰でも、私すらも、互いに隠して抱えている。
そしてこの場を後にし、獣を脱ぎ捨てたとして、果たしてそれで素になったことになるのだろうか……。
この世は誰もが被り物で、誰もが社交界を演じている――
「想像力を拡大させてください」
「…………」
「主人公の目で見る世界。主人公の心。
同時に、主人公を見ている周囲の目にも、イメージを巡らせてください。
そのとき羊は、獅子の貴方を、どんな風に見ているか。
と、また同時に貴方は、羊が貴方をどんな風に見ていると見るか」
「…………」
「物語とは感情の総合芸術。
さぁ、作者にも同化しましょう。
『彼』はどんな意図で、どんな狙いで、何を想って次の文を編んだのか」
『彼』が、何を想ったか。
『彼』は、きっと、
「――締切ヤベーとかじゃねぇの」
横から割り込んだ無粋。
陸歩は呆れて、ガックリと項垂れる。
せっかく浸っていたのに台無し。
イグナも氷点下の視線で、紫煙と共に戯言を吐いたアインを睨みつけた。
「茶々を入れないでください。
その無駄口を封じるため、わざわざ水煙草など持ち込んだのですよ」
「悪い悪い。つい、な。
そうカリカリすんなよママ。ほれ、坊やの情操教育を続けろって」
剣林クヤナギの鍵獲得に失敗して以来、アインの悪態は尽きない。
その件について、陸歩としては反論の余地も立つ瀬もなく、言わせたいだけ言わせているが。
主をこう腐されては、イグナは流せない。
「よい、度胸です」
「なんだ、やるかぁ? クヤナギの鍵もねぇくせに」
「貴方と違い、ワタシには剣以外の手札もあるのですよ」
「ほーぅ。おもしれ」
「リクホ様、許可を」
「ん。ダメ」
さて二人を、なんと宥めたものか。
思案に目を眇める陸歩の膝へ、愛らしい重量が飛び込む。
にあ。
猫だ。
漆黒の体毛をし、漆黒の翼を背にした、一匹の猫。
その姿からも分かる通り、神の遣い――いや、この子はそれ以上。
かつて世界樹の街にて、陸歩が我が内へ引き入れた神威。
かつて夢煙る温泉街にて、朧に現れた影。
かつて塩の街の地下迷宮にて、束の間だけ受肉したその姿。
何をきっかけにしたのだろう。
剣林の鞘人形と斬り結ぶ中、この子はいつの間にか傍らにいた。
出現と呼ぶべきか。それとも降臨か。
この子は、神の威光の一端、そのもの。
そんな存在が、金の瞳でじっと見つめると。
イグナはそっと正座に直る。
意外にも、アインも大人しく腰を下ろした。ふいと明後日を向いて、何か猫に、思うところでもあるのか。
とにかく、二人が胸倉を掴み合う前に、矛を収めてくれて助かった。
陸歩は感謝の意を込め、黒く小さな頭を撫でる。
満足そうに、にあ。
そういえばキアシアはどうしたのだろう。
彼女も自分のラグを広げて、さっきまでこの猫と遊びながら「あなたも名前がいるわよね」と張り切っていたのに。
「…………」
見れば、クッションを枕に、すやすやと寝息を立てている。
陸歩の膝の上で丸くなる猫。
その表情と、夢見るキアシアは、どことなく似ている気もする。




