裏 ≪処理≫
市場は本来の活気を完全に凍り付かせ、静寂で満ちている。
並ぶ店はどれも開かれたままでありながら、売り買いする人々は音も立てず、どころか身じろぎも一切しない。
誰かが零した硬貨さえ、地面に着く前に固定されていた。
時間の流れが止まっているのだ。
まるで世界が立体絵画にされたかのような光景。
しかしユノハは、これに大した感動もなく、普段と変わらぬ歩調である。
後ろにハンドベルを携えたカナが、恭しく従う。
どんな耳にも盗み聞かれぬよう計らった彼は、ユノハへと報告を差し上げた。
「ジュンナイリクホは誘導の通りに進みました。
剣林クヤナギにて自身の技量を思い知り、更なる力を求めようとしています。
次の目的地はまず間違いなく、ミクストンかと」
「ふぅん」
と、ユノハは興味も見せない。
「自らの流派の祖と戦ったことで、神威の新たな扉も、開いたようですが」
「あっそ」
それよりも手近な八百屋に意識をやっていて、取り揃えられた青果の中から、具合のよさそうな葡萄をじゃらりと摘み上げた。
最初の一粒を房から唇でもぎつつ、停止した店主のエプロンのポケットへ代金を滑り込ませる。
その様子に、カナは誇らしい。
万引きをして絶対にバレない状況でありながら、きちんと支払いをするその実直さ。
というより、ここで金を渡さなければ経済の帳尻がずれ、世界にわずかながら歪みが生じてしまうことをきちんと見通し、懸念されたのだろう。
やはり我が導師は、この世の全体を細部まで把握してらっしゃる。
敬うべき人物だ。
――これも使い魔となった効能なのか。
すでにカナは魔女よりも、ユノハをこそ真の主と定め、心酔を抱いている。
いや……この尊敬は、呪いの類では断じてない。
彼こそが見せてくれたのだ。何よりも見たかったものを。
そして今も、この後も、見せてくれる――
「で?」
涙腺を高ぶらせていた使い魔を、ユノハが酷薄な声音で促す。
肝心な部分はその先だ。
カナは慌てて「失礼しました」と続けた。
「同じくクヤナギへ遣ったムミュゼは、予定通りアインと激突し、敗北。死亡。
これにて魔女の麾下から、箙の月が欠けました」
「灯以来、やっと二人目か……。
剣は? そのときにちゃんと渡った?」
「はい。ムミュゼに蒐集されていた例の聖剣は、今はアインが所有しています」
それがこの先、どんな布石として機能するか。カナには現時点では分からない。
彼に視える運命の規模はまだまだ、ユノハよりもずっと小さく少なく、導師が打つ手はたびたびカナの理解を超える。
しかし、問うのも不敬。
ユノハが必要と言うのなら、それは世界にとって必要な事象に違いないのだから。
葡萄をまた一粒含み、種をボリボリと噛み砕くユノハは、振り返らないまま言った。
「あの巨人にはまだ何人か、月を斬ってもらわなきゃだからね。
今のうちに、ちょうどいい刃物を持たせておきたかった」
「――嗚呼」
今度こそカナの瞳は潤んだ。
教えてくれた。運命を導師御自ら、開示してくれた。
なんて光栄なんだろう。
「魔女の反応は?」
「は……はい。
帰還したキリカに事情を聞いてからずっと、浴びるようにお酒を飲んでいますが。
悲しんではいても、ふさぎ込んでいるというほどでもなく」
「むしろ、はしゃいでるんじゃないの。仲間内には隠そうとしてるだけで」
「かもしれません。
いずれにせよ、頭の中ではすでに、計画を次段階へシフトさせているでしょう。
――これから仲間を集めて、ムミュゼの葬儀をするそうで。僕も出席します」
「分かってると思うけど」
分かってると思うけど。
分かってる、と導師に思われている。
カナはもう、歓喜で息も詰まった。
「はいっもちろん心得ておりますっ。
次なる月がジュンナイリクホとぶつかるよう、手配します」
「気取られるような下手なアプローチなら、しない方がマシだからね」
「肝に銘じます。
僕に可能なだけ、迂遠な運命の流れを使用しますので」
「ん」
まだ半分残る葡萄の房が、後ろ手に放られた。
それをカナは、咄嗟にハンドベルの音色で宙に固定して受け取る。
ユノハの視線は前にだけ注がれている。
時間の止まった街の中、同じく時間の止まった、目的の人物。
道の向こうからやってくる、フードを目深に被った男に。
神球が飛んだ。
男の胴に、大きな大きな風穴が開いた。
未だ時間は止まったまま、男は崩れもしなければ血も出さない。
表情は平静で固まっている……だが次に動き出したときには、きっと地獄を見ることだろう。
ユノハは、やっぱり振り返らなかった。
「騒ぎにならないよう、片付けといてね」
始末した男とすれ違い、神球を弄びながら、何処かへと去っていく。
それをカナは、深々と頭を下げて送った。
「……さて」
申し付けられた通り、死体をきれいさっぱり消さなければ。
地面に埋めて、骨も朽ちるまで時間を進めるか。
この男が何者か、カナには現時点では分からない。
しかしユノハが不要と言うのなら、世界の今後に害となる存在に違いない。
大方、ジュンナイリクホか魔女のどちらかに加担するか、あるいはどちらかの邪魔をするか。
両勢力の均衡は、慎重に保たれ、制御されなくてはならないのだ。
それを不用意に壊し得る因子は、回路神の名のもとに偉大なる導師によって、こうして事前に注意深く取り除かれる。
その行いを、カナは、心から尊敬する。
「――我らが主神、回路神セキュアよ。
世界は今日も、導師の手によって、つつがなく回っております」




