結:転 ≪矜持≫
さすがに、踏んで潰そうという気にはならない。
呆然自失のムミュゼは、自らを抱き、震え、その姿はあまりにも哀れを誘うものだから。
アインは舌打ち一つ、大地に塔剣を突き立て、左の掌から鍵を排出。
巨体が縮み、翼が背中へと収束した。
さっきまで手の中にあった愛刀を見上げてから、もはや血の海と化した周囲に目をやって、舌打ちをもう一つ、ぬかるみを歩く。
『線』を軽く飛び越え、ムミュゼの前に着くと。
虎は、ひゅっ、と喉を鳴らして滑稽なほど怯え、立つこともままならないで必死に後退った。
「…………」
何とも。
アインは渋い顔をして佇む。
今日一日で数千も殺し合った相手の、そんな無様に、目を眇める。
「…………」
ムミュゼの身体はすっかり竦んでいた。
比喩でなく小さくなって、黄金色の獣毛もばらばらと抜け始めている。
彼の掌から、一本の鍵が、跳ねるように抜け落ちた。
虎の姿を維持出来なくなり、そこにいるのは無力な少年が一人。
魔女に見いだされた剣士とは、とても思えない。
この世のあらゆる流派を納めた達人とは、とても。
だが、無理もないことではある。
ムミュゼ・ミアトは、己が可能性の全てを尽くし、その全てがアインヴァッフェ・イリューに殺されたのだ。
どうあっても敵わず、どんな剣で挑んでも死は不可避と、本当に一片の隙もなく思い知らされたのだ。
それは、どれほど凄絶な体験だったか。
可能性の数だけ死んだのと同じ。心が折れるには余りある。
そんな彼を、アインはひたすら青い感情で見つめていた。
手に剣はない。こちらにも、あちらにも。
果し合いの結末を、一体どうしたものか……羅刹は本気で、途方に暮れる。
「…………。よぉ、」
「っ!」
なんと言おうと思ったのか、自分でも定かでないまま、声をかけると。
少年はその場で頭を抱えて丸くなり、噛み合わない歯の根をガチガチ鳴らす。
「……見ちゃいられねぇな」
そのせいで本当に見逃した。
体捌きはずぶの素人。
腕力、脚力、いずれも一般男性以下。
持った剣の重さ、纏った鎧の重さに振り回されている。間違いなく人を刺したことなどあるまい。
けれど、アインは見逃した。
左から迫った彼女は、ぎりぎり視界の内側にあったが、見逃した。
ムミュゼの侍女が、拾い上げた魔剣の一本で自分を刺すその瞬間まで、完全に気付かなかった。
「なに、」
「――――っ!」
それともキリカの、主のための決死を褒めるべきだろうか。
まさしく捨て身と呼ぶべき覚悟で奇跡を起こし、羅刹の脇に深く深く刃を突き立てる。
「こほっ」
と咳を漏らしたアインは、密着するキリカの肩を押した。
少女はそれだけで容易くよろけ、剣ごと離れる。
しかし。
主の前に立ち、見様見真似で構えたキリカの剣。
それとは別に、そっくり同じ刃が、アインの身体を貫通したままだ。
しかも不思議と痛みがない。感じるのは鋭い冷たさだけで、出血もなかった。
「ひ、退いてくださいっ、アインヴァッフェ・イリュー……っ!」
ムミュゼを庇うキリカは、本物の殺戮者と相対している恐怖を兜に隠し、気丈に切っ先を向ける。
「この魔剣は、剣聖と呼ばれた人物から、ムミュゼ様が得た戦利品です……!
刃には自らが斬るものを制限し、自らに斬られた者に制限を与える力があります!」
「はぁん?」
見覚えのある剣だ。
刀身に特別な彫りもなく、鍔が大仰でもなく、柄に飾りがあるでもない、なんとも簡素な一振り。
思い出す。
潔白者の泉に沈んでいた、あの聖剣か。
「いま貴方に刺さっている刃の複製は、貴方が私の課した制限を、破った場合に実体となり貴方を貫きます!
いいですか、私たちを追わないで! それが制限です!
追えば刃が貴方を内部から破壊しますよ! 刺した私が解除しないかぎり刃は消えませんし抜けませんから!」
「…………」
「……っ。
さぁ、ムミュゼ様。立てますか? 掴まってください」
こちらへ拙い警戒を払いながら、ムミュゼに肩を貸そうとしているキリカ。
アインは、内心に激しいものを抱えながら睨み付けた。
連れ去ろうというのか。
ムミュゼを、この場から。
ムミュゼを、敵の前から。
担いで運ぼうというのか。
この女、なんて――なんて、惨い仕打ちを。
「おい……待てよ……」
それはほんの呟きで、不恰好な二人三脚に忙しいムミュゼたちには届かない。
だからアインは余計に猛り、怒号を吐き出した。
「待てっつってんだよ!」
びくりと振り返る二人へ、一歩、踏み出す。
――途端に体内で刃が現実となり、アインは滝のように血を吐き零した。
構わない。
「ふざけんなよムミュゼ! これはオレとお前の戦いだろうが! 抜いた剣はテメェで納めろよ!」
「ひっ……」
慄くムミュゼは目に涙を浮かべ、女へ縋りついている。
それがあまりにもあんまりで、アインは、目眩さえ覚えた。
「お、まえ……なぁ!
ふざっけんなふざっけんなふざっけんなぁ! 逃げるならテメェ自身が工夫して逃げろ! 足止めに技を凝らせよ! 世話人に任せっきりって……っ、馬鹿か!?
最後までカッコつけろよ馬鹿かテメェ!? 虚勢だって張って見せろ!
お前、だって、このっ……お前は剣士だろがぁっ!」
一歩。
アインは更に血を吐いた。
魔剣、聖剣の威力は大したものだ。ただ斬られているのとは訳が違う。
まるで毒のように、触れた肉を殺してくる。巨人の治癒力をして追いつかない破壊力。
それでも。
アインは、一歩。
構わない。
「待てよムミュゼ!」
嗚呼、駄目だ。
このままムミュゼを行かせては駄目。
羅刹はその思いでいっぱいだ。
女に割り込まれ、女に助けられ、女の手を借りて逃げ延びる?
そんなことになったら、ムミュゼの誇りはどうなる。
剣士の矜持は今度こそ粉々になり、きっと二度と立ち直れないだろう。
駄目だ。
そんなのは駄目だ。
ムミュゼをそんな惨い目に遭わせるわけにはいかない。
命を取り合った相手が貶められ、辱められようとしている……断じて許すわけにはいかない。
剣士として生きた者が、剣士として死ねなくなるなど、絶対にあってはならない。
……いや。他の誰がそうなっても、アインは関知しなかったかもしれない。
だが、それがムミュゼ・ミアトその人だというのなら、話は別だ。
「待てよ! ムミュゼ・ミアト!
オレはまだお前に斬られてねぇし! オレはまだお前を斬ってねぇぞ!」
一歩。
血を吐いた。
一歩。
血。
霞む視界で。
ムミュゼが歯を食いしばり、顔を背けている――この、馬鹿が。
一歩。
「待てよっ! 剣士ムミュゼぇっ!」




