結:起 ≪巨人≫
ふと、理性が蘇ってくる瞬間がある。
獣の肉体に対して、人の心はひどくちっぽけ。
次に呼吸をしたらきっと、圧倒的な本能に押し流されてしまうだろう。
ささやかに残った理性は、野性に溺れる自分に、罪悪感を訴えた。
だが虎として振る舞うのはあまりに心地よく、内心の自制など、容易く蕩かす。
罪悪感。
……何に対する、罪悪感だったか。
いや、そもそも。
罪。
悪。
そのどちらも、一体どこにあるというのだろう。
それらはこの世で人にのみ宛がわれたもので、獣には全く無縁だ。
研鑚の果てに身体へ染みつき切った剣術は、人で扱うよりもむしろ、虎のためにあったのかと思う。
剣は爪牙と同じく生得のものと感じられ、それは剣士として望み続け、挑み続けた境地に他ならなかった。
理性という重石を外したことで、意識が反射と融和していく。
これが獣の見る世界。
喜怒哀楽あらゆる心の作用がずっと単純になり、恐怖も劣等感も遥か彼方。
懐が清々と軽い。
……ふと、疑問に思った。
自分は虎の身で、なにを人のようなことを考えているか。
獲物の胸へと突き立てた刃の感触が心地いい。
獲物の首筋へと齧り付いた感触が堪らない。
口を満たす血肉の味。
その快感に、ムミュゼは――彼は、自分の名すら、忘れた。
「が……っ!」
アインが宙へと、血反吐を零す。
胸を刺し貫かれ、喉笛に噛みつかれ、虎と一塊に落下し、地面に叩き付けられてもう一度、赤を吐き散らした。
首を食い千切られ、呼吸が滞った。
どうにか左手に挿した鍵を、回そうともがく。
しかしそれよりも先に、虎二頭が追いついて、それぞれの刃を突き立てた。
「が……っ、」
二頭どころではない。
虎が、次々に虎が、無数の可能性の具現が、虎が大挙して押し寄せ、新たな魔剣を刺していく。
あたかも、アインの身体に剣林を作ろうと試みるよう。
惨いのは、これだけされてもアインが絶命していないことだ。
全身をくまなく貫かれ、それでもまだ、生きている。
首を刎ね、頭を割る――ムミュゼが当初言った通りに処していれば、アインももっと楽だったはずだ。
痙攣すら、地面に縫い付けられたため出来ない、本物の生き地獄。
「……ぁ……、」
かすかに、左手だけが震える。
ムミュゼは獣と成り果ててさえ、『剣の月』への執着が残るのか、アインの篭手だけは穿たなかった。
かすかに、左手だけが震える。
掌には、挿したままの鍵。
ついに開錠叶わなかった鍵。
……独りでに、回った。
「――っ!」
遠くから戦いを見守っていたキリカは、突如吹き荒れた熱波に、腕で顔を庇う。
鞘から変じた鎧は、魔術的防御力でもって彼女を守護するが、それでも尻餅を着かざるを得ないほどのエネルギーの迸り。
「っ」
息を呑んだ。
細めた視界に映るのは。
仰臥した巨人が、半身を起こす景色。
さながら、神話の再現。
初めて目の当たりにする、羅刹の真の姿。
キリカは、息を呑んだ。
想像よりもずっと大きい。荒唐無稽なほどに。
あんな恐ろしい者、悪夢にだって見たことがない。
ちっぽけな少女は、その場に膝を折り、呆然と呟く。
「剣の月……塔剣の、アインヴァッフェ・イリュー……っ!」
正体を露わにし、身を起こしたアイン。
身体中を突き刺した魔剣は、巨大化に際して肌が装甲化したために抜け落ちた。
今や些かの瑕疵もない。
虎が百頭からの群れとなって、巨人に剣や爪や牙を振り下ろすが。あまりにも体格差があり過ぎる。
アインはじゃれついてくる極小のものどもを、億劫そうに手で払った。
臨死からの快気とあって、さしもの羅刹もぼんやりとしている。
だいたい、意図してこの姿に戻ったのでもない。
さっき掌に挿した鍵は、腕力解放のもののはずで、一体これは何事か。
「……あぁ?」
自分の背中に気付いた。
そこには、セピア色の翼。
まるで神託者のよう……否、実際に神託者か。
アインはため息を吐いた。
「魔女殿め……やっぱり、俺にも何か仕込んでやがったな」
立ち上がり、ほとんど跨ぐ程度の調子で跳ぶ。
塔剣の傍らに着き、翼と同色の光輪が絡みついた柄を掴んだ。
――瞬間、悟る。この羽に宿されし権能を。
にやりと口角を上げた。
虎は口々に威嚇を叫び、そんな獣どもの目の前へ、アインはしかと手に馴染んだ塔剣で、一閃。
自分と無数のムミュゼとを分かつ、線を引く。
「覚悟が出来た奴から、その境界を踏み越えて来い」
聳える巨人が喉を鳴らせば、大地に轟いた。
「ただし――こっちは、修羅の世界だぜ」
虎の群れが吠え猛る。
我先にと巨人の足元を目指して駆け、襲い掛からんとする。
その数は、もはや千か、二千か。
アインが刻んだ線は長く、覗き込むほど深く、橋を要するほど幅広だ。
されど、虎の脚力ならば、何ほどのものか。
先駆けた一頭が、容易く飛び越えた。
途端に目の前に巨人の笑み。
ムミュゼには既に、我が身に起こった不可思議に驚く知性すらなく、そのまま猛然と斬りかかる。
代わりにキリカが目を剥いた。
くり広げられる光景は。
さながら、神話の再現。
線を越えたかと思えば、虎の剣士は……一瞬にして羅刹と同じ背丈まで巨大となっていた。
さながら、神話の再現。
両雄、互いの剣を交えた。
「はっはぁ!」
「――っ!」
響く剣戟。アインの声。虎の咆哮。
アインは笑う。
嬉しくって仕方がない。
本当の自分という、開放感。
なによりも、文字通り自身に比肩する、敵の存在。
アインは笑う。
彼が魔女に与するにあたり、要求したのは『対等な戦い』だった。
魔法で身体を縮められて他者と同じ目線となり、一応は望みが叶えられた、としていたが。
なんて気の利いた仕掛けだろう。
ありのままの自分に、敵のほうのスケールを合わせてくれるなんて。
自らと同じ大きさの敵と相対したことなど、かつてない。
同族ですら、アインに比べれば小人だった。
「おぉおらぁあああぁぁっ!」
最初の虎の、首を刎ね、頭を割る。
次の虎が線を越え、いま巨大となる。
その次、その次、その次も控え――あぁこの甘美なる戦いを、思う存分、いくらでも。
心ゆくまで、味わえるではないか。




