転:結 ≪分岐≫
斬った、というよりほとんど圧殺だ。
アインは目の前の、塔剣の肌に映る自分の像から視線を切り、じわじわと足元に広がる血溜まりを一瞥する。
汚泥のようにぶちまけられた肉が赤く黒く白く、それにこびり付いた毛皮には元の黄金色の輝きはもはやない。
左腕の篭手には、ムミュゼの口内から丸ごと剥がれた上下の牙が、食いこんだままだ。
「……他にも鍵、もう何本分か、隠してる本性があったんじゃねぇのか?」
勿体ないことをしたかもしれない、とため息を吐く。
それらを拝む前に、終わらせてしまったとは。
かといって、あれ以上粘っていれば逆にこちらがやられていたはずで、まったく、戦いとはままならないものだ。
まぁ、そこが堪らなく面白いのだが。
身体に刻まれた傷が急速に治癒し始め、アインは熱と湯気を発散する。
これにて決着……若干の食い足りなさは否めないが、今回の本命は剣の偽神体と化したイグナだ。
前菜にしては、ムミュゼは贅沢な相手だった。
塔剣を納めるべく、篭手の掌へ触れようとして、
「っ」
ぞっと、飛び退く。
何にそれほど過敏に反応したものか、アイン自身もわからない。
五感より深い無意識が、咄嗟に身構えさせた。
揺らぎ。
土煙と湯気が、風に沿わず不自然に揺らいでいる……気がする。
羅刹の嗅覚をして、それは『気がする』程度の違和感だ。
だが。
それは、確かに、徐々に確信を帯びていき、
塔剣の裏から、鋭利な爪を備えた五指が覗いた。
剣を携え、人のカタチをした虎が、顔を出す。
「……あぁん?」
百戦錬磨のアインをして、唸らずにいられない。
ムミュゼ。
確かに潰したはずのムミュゼが、そこに健在。
広がる血溜まりはそのままで、優に一体分は滲んでいるのに。
あるいは残存した霊魂か、と羅刹が疑ったのも無理はない。
それほどまでに何の気配もない。
獣。剣士。どちらも『気』の扱いに長けた者。
その両方、武芸百般の獣なら。
本気で息を潜めれば、視界に入っていてもここまで無。
ぐるる、と虎が喉を鳴らした。
ぎろり、と野生の眼光がアインを射抜く。
途端にムミュゼから、存在感が膨張する。
その金色の身体から、ゆらゆらと立ち昇る様がくっきりと分かるほどの――殺気。
それに乗じたかのようだ。
現れる、虎、もう一体。
ムミュゼが二人。
「おいおいおいおい……。
あー……つまり。お代わり自由の食い放題ってことか!」
強さゆえの単純。
アインは不可解なムミュゼの状態・能力に、ぐずぐずと思考を割くのをすぐに止め、現に敵が二人いることにだけ注視する。
――ムミュゼが引き起こした現象を推し量るには、魔術的教養が必要だ。
猫、とそれに類する獣は、そもそも魔性の生き物である。
猫に九生あり。
猫を殺せば七代祟る。
年月を経たものは尾が分かれ、猫又に。
猫にまつわる呪的な要素は多い。
のみならず魔術師たちは、『運命を跨ぐ力』を猫の真骨頂と見出す。
運命を跨ぐ。
時に人よりもよほど達観の素振りを見せる、猫。
当初『悟性』とされたその能力の正体は、長きに渡る研究の末、明らかにされた。
猫たちは二者択一を迫られたとき、二つとも選択し、存在している。
左に行くか。右に行くか。一匹の猫はどちらも選び、どちらにも行っている。
ただし、思考の中でだけ。
現実には一方を取り、彼らは同時に空想の中で、もう一方を過ごしている。
予知、とは違う。
有り得た別の運命を、現実の傍らで、魂のみで経験する能力。
魔法魔術は、この世全ての者どもから集積された想像を、現実に顕す業だ。
猫の特別な想像力を人が持ち、それらを自在に具現できれば、人は個人で己が可能性の全てを辿ることができる。
……あくまで理屈の上では、と但し書きが付くが。
ムミュゼ・ミアトはあらゆる剣の会得を望んだ。
跪く彼に、魔女は一頭の虎を与えた。
――羅刹へと肉薄する虎。
左から迫る可能性、右から迫る可能性、両方が同時に実在し、二頭となって襲い掛かる。
手にした魔剣の刃は、それぞれ異なる。
歩法、剣の構えはそれぞれ、流派が異なる。
ち、とアインは舌を打った。
こういうときのための脇差がフランベルジュなのだが、あいにくと今はない。
篭手から新たな鍵を抜いた。
怒れる虎が咆哮を上げ、互いに完璧な連携――何しろ本人同士だ――で剣を振るう。
羅刹は、鍵で迎え撃つ。
ナイフほどの長さもない、刃さえない鉄の棒で、くり出される二倍の斬撃を捌いた。
「へへっ!」
「「――っ!」」
瞠目するべきは、アインのその度胸。
何度も斬りつけてくる虎の剣はいちいちが必殺で、その中から本当に致命的なもののみを正確に見定め、弾く、あるいは逸らす。
それ以外は全て、肉を擦らせるがままにする。
圧倒的な実戦、および被弾の経験だけが可能にする、まさに羅刹の立ち回り。
獣の剣は重く鋭く獰猛だが、流派に忠実で素直だ。
一瞬の隙でアインは二頭の虎、その腹部へ、肘を叩き込む。
怯ませた。
好機。
「おら、ついて来い!」
身を翻し、ほぼ垂直の塔剣を駆け上がる。
ムミュゼたちが涎を零しながら続いた。
柄を目指しながら、アインは鍵を掌へと挿した。
あれらとは、もう一つ本気で手合わせしたい。
より精細と凄惨を込めた塔剣で斬ってみたい。
……彼がこうして、両手を塞ぐ瞬間を狙い澄ましたのか。
「なに、」
目の前から、虎が降ってくる。
背後からは二頭。
目の前のは三頭目――それは始めから襲い掛かってこず、剣の上に潜んでいたという可能性。
「やっべ……!」
躱す、間はない。
身を捩る隙さえ。
虎の剣に、胸を深く刺し貫かれる。
虎の咢に、喉笛を噛みつかれる。
「っ!」
一塊になって落下しながら、アインは自分の中に、血の味が満ちていくのを。
たっぷりと味わった。




