急:序 ≪死線≫
女々しい走馬燈などは一片たりとも過ぎらず、マチルダは密かに安堵する。
極限の集中に、世界から色が失われ、時間が鈍麻していた。
目にありありと浮かぶのは、在りし日の思い出などでは断じてなく。
――敵の次の動作・攻撃の軌道。
――自分が打つべき次の一手。
死のその瞬間まで、マチルダ・ヴィスケスは剣士で在り続ける。
初撃、顔を目がけて迫る鉄砲水を、身体を僅かに傾がせるだけで躱す。
頬を削られる痛みは、もう意識にも上らない。
二撃目。初弾とほぼ同時のそれは、正面から襲ってきて。
太刀で切り裂いた。全力で抗さなければ打ち負ける威力だった。
三撃目、空から降った一筋が、背中の若木を擦って刻んだ。
神経に直接触れられたような心地がし、次に踏むべき一歩が揺らぎ、危うく転びかける。
四撃目。後方からの水流が、左足の太腿を貫く。
五撃目はどこから来たかよく分からない。
六撃目に自分がどうしたか、マチルダは分からなかった。
七、八、九……もう数えるのも億劫だ。
前へ。
とにかく前へ。
街に仇なす敵を、斬るために。
「――――っ」
その時ようやく……愛刀ごと、右腕がないことに気付く。
いつ、どこで二の腕から先を奪われたのか。
構うものか。
それでも駆ける。
街に仇なす敵。刀がないなら喉笛を食い破ってやる。
雨が絶え間なく降る。
目にありありと浮かぶのは、在りし日の思い出などでは断じてなく。
――敵の次の動作・攻撃の軌道。
――自分が打つべき次の一手。
「――化け物かよ……」
ラブラスカは呆然と呟いた。
仲間たちと共に、打ちこんだ激流の数は、既に数千か。
今なお次々に射かけ続けている。弾雨は止まない。
一発でも敵船を穿ち、藻屑へと変えてきた、自慢の主砲だ。
流れ弾で『王龍の赤傷』号を損壊させてしまうことを気にして、加減している……無いではない。
だが、だとしても、人一人を屠るには、十分すぎる一斉砲火である。
それなのに。
この女防人は。
「……化け物、かよ」
未だ、人の形を保っている。
本当ならとっくに削ぎ切っているはずなのに。
全身を血で染め、右腕は失くし、満身創痍ではあるものの。
こうしている今も、何発もがマチルダを撃ち据える。
流血が飛び散る。
流血。
海賊は、はたと気付いた。
この女は流体を操作する剣士。
自身の血液を操り、即席の外装としているのか。
あれほど、瀕死の状況で。
「やっぱ……あんた、惜しいなぁ」
ラブラスカが頭を振る。
やるせない。こんなに欲しい。こんなに欲しいのに、手に入らないなんて。
マチルダは、まだ、前進を止めない。
すり足になって海牛の速度で、甲板に血の跡を引きずりながら。
あまりに重たい雨粒を、もはや躱す力もなく、一身に受け止めながら。
どんな鎧を着ようとも、激流の威力を無しには出来ない。一瞬ごとに、身体に新たな裂け目を負いながら。
まだ、前進を止めない。
その目には、とっくに光も危うい。
――扉が開く。
「あ?」
突如、メインマストの扉が向こう側から開き、ラブラスカは眉根を寄せる。
開け放たれた先は、トレミダムの広場。
さては、逃げて行った連中が、援軍でも呼んできたか。
それにしては、覗いているのはさっきの商人と……どこかで見覚えのある、華奢な少女。
「――扉ぁ開けたぞキアシアちゃん!」
サウロンが叫んだ。
キアシアは、覗き込んだ船上の様子を目視は出来ない。
両目は閉じられ、血の涙が伝う。
両手には、弾込めしたばかりの拳銃が一丁ずつ。
両肩を後ろからサウロンに支えてもらい、照準は彼任せだ。
「正面で、あってる!?」
「あぁ! 真っ直ぐ!」
「マチルダ先生ぇっ!!」
トリガーを引いた。
銃口から放たれるは、魔眼に由来する奇跡。
極彩色の流星が二筋。
一方は、船上に出ると途端に弾けた。
煌めく光子が十六色、逆巻いて凝固し、扉の前で新たな扉の形となって。
開く。
通じたのは、どことも知れぬ山林の中。
ドアを開けたのは、陸歩だ。
驚愕に目を見開いている。
「し、」
一瞬のうちに、彼はおおよそを悟ったらしい。
これもまた奇跡か。
状況に面食らって硬直することなく、直ちに自身の鈴剣を放った。
「師匠――っ!」
弟子の声で、マチルダはハッと意識の焦点を取り戻す。
鈴の音をさせて飛来する刀。
手を伸ばす。
失った利き手を。
――魔眼の奇跡が、剣より先んじて、マチルダへと飛び込んだ。
手を伸ばす。
失った利き手を――光が逆巻いて凝固し、補った。
輝く義手を得て、マチルダは鈴剣を、掴む。
持ち主の心を映すその刃は、樹木のように枝を伸ばし、その姿は七支刀。
「――ァアアっ!」
咆哮を迸らせ、剣を回す。
振り回す。
敵の水流など、容易く弾き返した。
剣は鈴の音で、彼方を擦るほど長大。
マチルダは居ながらにして、ラブラスカを襲う。
「っちィ!」
戦闘者の本能か、超人じみた反射で身を屈める海賊。
だが姫たちはそうもいかない。
ある者は胴で斬られ、ある者は頭を両断され、十一人が一刀に散る。
その間に、マチルダはもう、ラブラスカから落ちる影の中にいる。
あぁこれぞ、剣術歩法『縮地』の極致。
達人の一歩は瞬きを置き去り、千里に及ぶ。
手にした剣は、鈴の音で、自身の太刀と同じ尺に。
「――っリクホぉ!」
呼ばれるまでもない。
とっくに陸歩は飛び込んでいた。
降り注ぐ弾雨など、物ともせずに。
その手には、拾い上げた師匠の太刀。
「斬れぇ!」
「はいっ!」
マチルダの剣は流水を帯び、右から斬り上げ、
陸歩の剣は紅蓮を連れて、左から袈裟に。
師弟の剣は、その剣閃を交えながら、
海賊の身体を、斜めに斬り捨てる。




