破:急 ≪弾雨≫
手にした瓶から、愛した女が再び具現する。
水平線の彼方より、立ち昇った水柱が、この船を目指して殺到してくる。
滝のように甲板へ降り注いだ、その数は十。
飛沫が次々に、麗しい女性たちへと縒り上がり、それぞれが胸に抱いているのは海底で千年を過ごした酒瓶。
十一の姫に囲まれ、海賊は高らかに吠えた。
「さぁ錨を上げろ! 魂に帆を張れ!」
船が、屹立する水の壁に包まれた。天までも閉じられた。
それは海水で形作られた瓶で、巨大な水霊の手に掲げられている。
内側にはびっしりと、逆棘のように波が立つ――水霊だ。隙間なく並ぶ水霊の群れが、拳を振り上げ、ざぁざぁと叫んだ。
「見果てぬ夢を羅針盤に、憧れのさらに先まで! 行こうぜ野郎ども!」
海が啼く。海賊たちの鬨の声だ。
その圧。
マチルダはびりびりと、肌に震えを覚える。
守るべき者たちを背に、この状況。
ラブラスカの指鉄砲が、激流を放った。
「っ!」
一刀のもと、マチルダはこれを両断してみせるが。
「…………」
手応えから察する、敵の弾丸の威力。
姫たちが宙に広がり、船長に倣って右手を指鉄砲にして、狙いを定めた。
マチルダを、ではない。
商人を、水夫たちを。それが防人の枷になることは明らかであるがゆえ。
一斉に射られれば――マチルダは冷静に悟る――身を挺する以外に、彼らを庇う術はなかろう。
その内心を読み取った、訳ではないだろうが。
「――もう、もういい!!」
叫んだのはサウロンだ。
『王龍の赤傷』号の鍵をひしと握りしめ、血を吐かんばかりに続ける。
「もういいマチルダ! もういいよ! もう、こんな……。
なぁキャプテン! 参った、降参だ! 船は返すから!」
「おいおい。こっちの首は落としておいて、今さらそりゃあ虫が良すぎるってもんだろ」
苦笑するラブラスカは、「それに」と肩を竦ませた。
「あんたらンとこの防人は、そういう態度には見えねぇしよ」
「マチルダぁ……」
マチルダは、きっぱりと太刀を構え、研ぎ澄ませた剣気をそのままに、海賊を睨み付けている。
「…………」
今なお、自身の中で膨れていく力。
これを用いれば、サウロンたちを傷つけさせるより先に、もう一度ラブラスカを斬り捨てることが……。
いや、不可能だ。
彼我の位置、展開した姫たち、間合い、角度。
飛び込めば、敵のいずれかを、必ず一つは取りこぼす。
そのとき失われるのは、罪なきトレミダムの民一人だ。
「…………」
ちりりと、若木の生えた背中が引き攣れた。
こめかみから伸びた枝が疼く。
敵を討つのに、無辜の命を犠牲にするなど……決して、あってはならない。
太刀の切っ先が床を向いた。
構えが解かれる。
ほう、とラブラスカは口をすぼませた。
そんな海賊を、マチルダははっきりと見つめ返してから、目を伏せる。
「済まない、サウロン」
慙愧に堪えず、マチルダは己の頭上で枝葉を広げる木に、そっと触れた。
街と人々を守るが防人。
だというのに。
従兄たちを危険に晒し、あまつさえ、贖えない財産を捨てさせようだなんて。
「私は、防人失格だ」
「そんな……そんなことねぇよ!」
「あぁ、そんなこたぁねぇなぁ」
とラブラスカも頷いた。
「いや本当に、大した武者だ。
あんたと引き換えになら、そいつらを見逃してもいいぜ」
「私に……海賊になれと?」
「嫌だってんなら、木材として使うだけよ」
マチルダは鼻で笑った。
「いいね、椅子にでもするがいいさ。
お前の尻を、きっと――齧り取ってやろうじゃないか」
こめかみの枝。
そこに生っている鍵を、もいだ。
「ふ――っ!」
振り返り様、腰の捻りから肩・肘・手首・指先へと連動させるのは、手裏剣の術理だ。
投じられた鍵は空を裂いて一直線に飛び、メインマストへと突き刺さる。
扉の樹で出来たメインマスト、その扉のドアノブ、鍵穴へと過たず。
投擲には精妙な回転が加えられていたのか、鍵がカチリと回り、ドアが開いた。
半開きの向こう側は、トレミダムの広場。
「走れッ!!」
マチルダの裂帛に、商人や水夫は即座には動けない。
最初に反応したのは、十一の姫の中でも、苛烈な気性の二人だ。
激流の射撃。
マチルダが一方を左手の裏拳、一方を太刀で弾き、もう一度吠える。
「走れぇ!!」
ようやく硬直の解かれたサウロンたちが、メインマストへと駆けた。
「このっ、」
ラブラスカから、姫たちから、空覆う海から、次々に射かけられる指鉄砲。
弾雨が無数に降り注ぎ――ここから先は、時を止められる者にしか追えない。
「――――」
一番に先駆けてくる激流の一筋を、見極めたマチルダは斬り払う。
刃に触れた途端にそれは彼女の水となり、剣術に操られて鮫へと姿を変え、身体をうねらせてサウロンたちを続く弾から庇った。
その間にもマチルダは、迫る鉄砲水を斬る、斬る、斬る。
鮫の形にしていては手が遅れると瞬時に判断し、細かく鰯にし、それらも従兄と水夫への防衛に差し向ける。
「っ!?」
ラブラスカが目を見開く。
彼には、マチルダは剣を正眼に、佇んだままに見える。
かろうじて刃の閃光が、幾重にも交差するのが見える程度。
水流の雨は宙にて独りでに弾け、魚に変わって、逃げる商人たちを守っているように。
ついに、サウロンが扉へ辿り着いた。
彼は開け放したそこへ、まず部下たちを潜らせ、声を張り上げた。
「マチルダ! 早く!」
「かまうなぁ!」
「そんなっ、」
「行け! 閉じろ!!」
「……ッ! すまんっ!」
扉が閉じた。
ドアノブから鍵が消える。向こう側で抜いたのだろう。
海賊たちは掃射を止めた。
「…………」
ラブラスカは、途方に暮れて立ち尽くす。
よもや、まんまと逃げ果せるとは。
「……見上げたもんだ。本当に、見上げたもんだぜ。
あんた、相当な頑固者だな――そんなになってまで」
「…………」
息荒く、構えた太刀も上下に揺れるほど、消耗し切ったマチルダ。
雨を斬るという難行は、彼女をしてこれほどまでに力を振り絞らなければ叶わない。
のみならず。
その全身はいくつも貫かれ、血に染まっていた。
守るべき者を優先し続けた結果だ。防ぎようのない弾丸を彼女は、避けることで生じる隙を嫌い、堂々と我が身に受け入れたのだ。
血が、血が滴る。
その姿。
その目。
海賊は、彼女があんまり哀れで、頭を振った。
「頑固で、馬鹿だなぁ。
あんた一人だったら、どうとでも切り抜けられたんじゃないのか?
あんな連中を気に掛けなければ、俺に勝てたかもしれない。
防人なんて役目に縛られて、意地になって、今はほれ、死にかけてる」
「…………」
「くっだらね。街と民のためってか?
なぁ、マチルダっつったな。
いいのかよ……まるで街の道具だ。そんなんじゃ椅子と変わりゃしない。
俺ぁやっぱり、あんたに自由を教えてやりたいよ」
「…………、断る」
ぜい、と彼女は答えた。
「防人だから、命を、賭けるんじゃ……ない」
「なら、どうして」
「好きだからだ」
きっぱりと言い切る。
そうとも、迷いなどない。
その想いはあの日、残りの人生の全てをトレミダムに捧げると誓ったときから、何も変わらず何一つ褪せてはいないのだ。
「好きだから。
私は……この街と、この街の人々が。好きだから……っ!
だから!」
「…………。そうか。
なら、もう、引き抜きも野暮だな」
ラブラスカは、持ち上げた人差し指で、マチルダを指した。
姫たちも、両手を鉄砲の形にする。
頭上の水霊たちも一様に。
船上めがけて、二度目の雨が降る。




