破:破 ≪浮上≫
夢よりもずっと深いところから、キアシアは光の指す方へ浮かび上がり――ゆっくりと目を覚ます。
「…………」
寝起きだが、頭は冴えていた。
身を起こし、布団を抜け出し、ここがマチルダの家の寝室だと今さらのように気付く。
先生の寝床を占領していたのか。
ほっと、ため息。
栄養も休息も足りた身体は軽い。
心が軽い。
過去にけりを付け、戻ってきたのだと実感し、もう一度ため息。
……リクホは。イグナも。
どうしただろう。
寝室をそっと出る。
「……、マチルダ先生?」
リビングは薄暗く、人気もない。
どうやら家主は留守のよう。
リクホもイグナも姿がなかった。彼らの荷物も見当たらない。
ひとまずキッチンに入り、水瓶からコップに一杯。
トレミダムの海を元にした蒸留水はほのかに甘く、いつも美味だが。
今は、特別に、沁みた。
ふと、籠に積まれた胡桃が目に留まる。
一つを摘まんだキアシアは、指先で殻の硬さを確かめて。
ぐっと掌に、力いっぱい握り込んだ。
「……っ。
……やっぱ、割れない、よね」
過去の世界で死にかけ、陸歩の血によって蘇生した。
ならば、もしかしたら現在でも、彼の力の一部が身についていないかと期待したのだが。
そうそう都合よくはいかないか。
鐘が聴こえた。
キアシアは、響く音にカナを連想し、反射で身構えるが。
間隔を短く何度も打ち鳴らされるそれは、街の警鐘である。
「なに……火事?」
それともトレミダムなら津波か。
何にせよ、とりあえず表へ出て、様子を探るべし。
上着を羽織って、髪を手櫛で撫て、差し当たっての身支度を済ませる。
腰にホルスターを吊った。
>>>>>>
マチルダは、張っていた気をようやく解き、太刀を一振り。
そんなことをせずとも、光の速度で敵の首を刎ねた刃には、血も脂も付いてはいないが。
海賊の首なし死体からは、温度がどんどん失われていく。
甲板に広がった血と海水は奇妙に混じり合い、渦模様を描いていた。
「全員、無事か」
「お、おう……」
サウロンや水夫たちは、おっかなびっくりと頷く。
「いやマチルダこそ、その、身体は……」
「じきに元に戻るさ」
これはとても神聖な力だと、防人ならば実感で分かるが。余人からすれば肉体が樹に変じているのは、相当不気味に映るだろう。
そのことを弁えてマチルダは、短くだけ答え、五感を澄ました。
街から聞こえる騒ぎ……警鐘の音……。
敵船長は討ち取ったが、事態がそれで直ちに収束する、という訳にはいかない。
トレミダムに散ったフジツボ人間たちを、残らず狩り尽くさねば。
「サウロン、私は街の防衛に向かう」
「あ、あぁ、そうだな」
「だがお前たちも、この船に残っているのは、安全かどうか。
一緒に安全なところま、でっ、」
突然息を詰まらせた彼女に、サウロンは色を失う。
「マチルダ? おいっ?」
「いや、こ……ぉ、」
思わず口元を、樹になった掌で押さえた。
えずく。
力が。
力が、溢れてくる。
腹の底から力が溢れて、破裂しそうなほど。
「こ、れっ、は!」
これは。
街が防人へ、防衛の力を更に注いでくる。
もはや暴走と言ってもいい勢い。
止めどなく流れ込んでくる活力。
今のマチルダは、洪水に晒された水車のようなもの。
「こっ、れヴぁっ!」
全身が一層激しく樹化し始めた。
手足は本来の何倍も伸び、枝があちこちから突き出して、新緑が芽吹く。
両方のこめかみから角のように突き出した枝には、飾るように鍵が生った。
これは。
トレミダムが、怯えている。
何かを恐れ、怖がり、防人にそれを排除するよう、なりふり構わず要請している。
街が何かに対して、過剰なまでに慄き、本能を逆立てている。
――何に対して?
船が持ち上がった。
「ぅわ? わ、わ、わっ!?」
サウロンも水夫も、右往左往。
防人の急変だけでも胆をつぶしているところなのに。
宙に浮かぶ能力が『王龍の赤傷』号にあったなんて。
それは正しい認識ではなく、船は自身で浮上しているのでなく、巨大な手に掬われている。
海水で出来た、巨大な右手に。
「――――」
首のないラブラスカの骸が立ち上がっていた。
右手を、何かを掬う形にして。
その背後から。
首のない巨大な水霊が、船を覗き込む。
ラブラスカが、摘まんだ格好の左手を、右掌へ押し付けた。
水霊の左手が、彼の生首を摘まんでいて、船上に立つ骸へ押し付ける。
継ぎ目があった瞬間から、ラブラスカの顔には赤みが差し――かほっ、と血を吐き零す。
「あ、あー。あぁー」
首の傷からは湯気が昇り、見る間に塞がっていくではないか。
ラブラスカはもう一度喀血し、足元の瓶を拾って中身を呷り、それで人心地に付いたらしい。
ニヤリとする。
「少し目を離した隙に、オイどうしたよその様は?」
「……っ!」
マチルダは、歯を食いしばり、自身の荒れ狂う内気に集中。
激流さながらのそれらを臍の下、丹田へと凝縮させた。
扉の樹から際限なく付与される力を、呼吸法で手綱を握り、乗りこなす。
全身から樹化が引いていく。
四肢まで元通りに。
代わりに背中を苗床に、若木が生えた。
きっとこれは一瞬でも気を抜けば、たちまち巨木に成長してしまう、自分は新たな扉の樹になってしまう……。
マチルダは剣を構えて引き締める。
「化け物め。首を刎ねても死なないか」
「あんたその格好で、人のこと言えるのか?
それに、死なねぇのは殺し方が悪いんだ」
何やらラブラスカは高揚した様子で、饒舌だ。
「海賊は縛り首って相場が決まってんだろ。
なんでか分かるか?」
「…………」
「丘で殺せってことさ。
海に返したら、海賊は必ず還ってくる」
「……訊いてもいないことを、親切にどうも」
「いいさ! ほんの礼さ!」
吠えるように笑ったラブラスカは、両腕をいっぱいに広げる。
――その時、この世に広がる、七つの海で。
水の柱が十、天を衝く。
「死して海へ入ったのは初めてだ!
そしたらよ、あったんだよ! 失くしたと思った財宝が!
会ってきたぜ! 皆いやがった! ともに駆けた野郎ども、愛した女たち!
俺が生涯をかけて築き上げた、縁という本当の宝物よォ!」




