破:序 ≪樹身≫
「ま、マチルダ!」
サウロンがその名を呼ぶ声は、安堵よりもむしろ、焦りが強い。
彼方より舞い戻った従妹は、財産と夢を守ると、きっぱり言い切ってくれるけれど。
彼女の左脚。
「マチルダ! ダメだ、船を降りろ――樹になっちまう!」
防人は、己が守護する街を離れられない。
余所の街へ行くことは出来ない。
これは街自身が定める絶対の掟で、破ればたちまち足の裏から根が生え、全身は固く強張り、瞬く間に一本の裸木になってしまう……。
『王龍の赤傷』号は、扉の樹を用いて作り上げられた船だ。
メインマストの代わりに、聳える樹。
この船上は紛れもなく一つの街で、乗船は他の街を訪れるのと同じこと。
防人が乗り込もうものならば。
だがマチルダは、ふっと苦笑を滲ませ、肩を竦めた。
「迷信だよ、それ」
「でもっでも、っその脚!」
「これはまた別の事情」
ラブラスカの放った強烈な水流で、遥か海の果てまで吹き飛ばされそうになったマチルダ。
その身体を近海で留めたのは、脚から育ち、海底にがっちりと噛みついた、樹の根である。
トレミダムの扉の樹が、排されかけた防人に手を貸したのだ。
街は、自らが見出した戦士を、決して罰しない。
去り行かんとする防人に根が生えるのは、街が彼らを惜しみ、引き留めようとするため。
街が格別の愛を、彼らへ抱いているがため。
「むしろ、すこぶる調子がいい」
そして街が自衛の意志を強めた際には。
その心は、防人の身を通して、現世に表出する。
左脚から脇腹を経て、左腕も樹へと変じ始める。
マチルダは太刀をそちらへ持ち替え、船首の上で、体勢を低く、低く。
――トレミダムが、民を守れと言っている。
――トレミダムが、街を護れと言っている。
そのために樹が蓄え続けていた力が、いま自身の中で燃え盛っているのを、海鮫人の女防人は高揚と共にはっきりと感じた。
「この街から――」
「っ!」
咄嗟にラブラスカは、スライディングの要領で、自ら前へ。
常在戦場が心がけでなく、日常であった男であるが故、卓越した直感で死線を嗅ぎ分けたのか。
「――失せろ賊どもぉ!」
瞬きよりもなお速い。
見開き続けた海賊の目には、防人の姿は船首と甲板の只中とに、二つ分。
残像をあまりにも濃く置き去りにしたマチルダが、振り抜いた太刀は、ラブラスカの手下たちの首を天高くまで刎ね上げた。
「っそが!」
辛くも躱したラブラスカ自身は、トーリスに押し流される格好で、マチルダとすれ違う。
この一瞬で、サウロンの胸元から船の鍵を掠め取ろうと手を伸ばしたが。
切り返してきたマチルダの太刀が、しん、と遮った。
指先が、確かに刃の腹に触れて、ぞっと凍える。
「くっそくっそくっそ!」
危うく斬り落とされるところ。
手を引っ込めた勢いで、滑って転げたラブラスカは、甲板に這う。
背後でゆらりとトーリスが立ち上がり、水の全身とドレスを鮫への敵意に逆立てた。
すでにマチルダは次を構えていた。
その目は必殺の間合いを見据えており、今や右腕も樹化している。
息を吸い込んだ。
「……――――」
この力。
街から託されたこの力は、防人として望外の栄誉であるが。同時に焦燥も煽られる。
裏を返せば、この力が投じられるほど、街が危機を感じているということだから。
トレミダムの防人は、マチルダを含めて三人。
他二人もこれと同じ防衛力でもって現在、街で暴れるフジツボ人間どもに対処しているところであろうが。
ここでさっさと敵大将を討たねば、被害が広がる。
息を、止めた。
甲板に三々五々、散らばっていた水溜りが、マチルダの周囲に集まり逆巻き始める。
彼女の流水操作剣術が、トレミダムの後押しも受けて、海賊の水霊を完全にねじ伏せ、一帯の水を手懐けていた。
トーリスも激しく震える。
ラブラスカは這いつくばったまま、あらんかぎりの力を込めていて、こめかみにはくっきりと青筋、鼻からは血。
どれだけ引っ張っても、水の主導権が、部下たちが取り戻せない。
ちょっとでも緩めれば、たちまち愛しい姫まで、鮫の剣に絡め取られそう。
「…………っ」
海賊は、全身を固くし、微動だに出来ない。
マチルダは、敵の次の身じろぎこそ必殺の隙と狙いを定めていて、おかげでラブラスカの寿命は延びている状況だ。
「…………っ!」
ぜぃ、と海賊が呼吸した。
姫がとうとう張力を失ってその場で零れた。
太刀が閃いた。
鮮血が散る。
「あ、」
伏せていたラブラスカの首が高々と飛ぶ。
その表情は、呆気にとられたように目を見開き、口を丸くし。
船の縁で一度、ぽんと弾んで、海へと転げていく。
「うぉっ!?」
サウロンが悲鳴を上げた。
彼の水夫たちも身を竦める。
……恐ろしいことに、残されたラブラスカの身体が慌てて立ち上がり、首を追おうとしたのだ。
ちゃぷんと波間に落ちる音がして、それを合図に首なしの骸もつんのめり、それっきり動かなくなるが。
マチルダも、しばしの間、残心を解けない。
「…………」
海賊から溢れ出した血が、甲板を染め、防人の爪先を赤くした。




