序:急 ≪姫君≫
瓶の口を、下唇に柔らかく宛がい、ラブラスカは囁いた。
「――愛してるぜ、トーリス」
途端に、氷が育つように瓶へ栓が結晶していく。
彼の言葉を逃さず封じたいのか。
彼の言葉で満たされたのか。空っぽだったはずの中身が、滾々と沸き上がった。
ラブラスカが栓を抜き放つ。
間欠泉さながらに瓶から水が溢れ出し、それは彼の目の前で、姫君の姿を取っていく。
船長に侍っていた水霊たちが、畏れ多そうに頭を垂れ、そっと下がって水溜りに戻った。
彼女たちとて相当の美人で、ドレスで煌びやかに着飾っていたが。
この姫は、別格。
「トーリス。久しぶり」
ふよふよと浮かぶ愛しの女に、相好を崩すラブラスカ。
の頬を、姫は水の平手で思いっきり引っ叩いた。
「でっ!!
……おぉ、……今、目が、白……」
海賊は、しかし逆上することもない。そんな資格もない。
一度目の生、その結末において。キャプテン・ラブラスカは愛する11人の姫の、誰にも何も言わず、最後の航海に漕ぎ出したのだ。
そのままポックリ死んでしまったのだから、殴られても文句を言える立場ではない。
この、ろくでなし。
とトーリスが言う、気配がした。生前の彼女の声が、ラブラスカの耳にははっきりと蘇る。
「あぁ……悪かったよ。悪かった。すぐ帰るつもりだったんだ。
500年、いや700年も……え、1000年? 本当かよ、そんなに待たせた? なんにしろ……もう、愛想も尽きちまったか?」
本当に、しようのない人。
とトーリスがため息を吐く、気配。
表情の水を、仏頂面に細波させてから、彼女は左手を差し出した。
海賊がそこへ口づけを近づけると。
姫の両手が、彼の顔をさっと捕まえ、唇へキスを重ねる。
「……ありがとな」
ラブラスカの手に握られていた瓶の栓――それは鍵の形をしていて、いま首飾りとなってトーリスの胸元を彩った。
「んじゃ。さっそく悪いが、ちと力を貸してくれ」
波止場へ高波が迫る。
明確にラブラスカを狙う海水は、うねりながら宙で巨大な鮫の形になり、噛み殺さんと口腔を晒した。
トーリスが指差す。
それだけで鮫は、内側から弾けて散る。
――だがこれは誘導。
目を上へ引きつけたマチルダは、這うように海賊の足元まで滑り込んだ。
「――――」
振り上げられる太刀。
海賊が、左手に握る瓶の、底で受け止める。
だがこれも誘導。
刃を囮に、マチルダの蹴りが既に、ラブラスカの足を払わんとしている。
だがラブラスカも然る者。
片足が掬われても、もう一方の足で軽快にステップを踏んでバランスを崩さない。
生涯を船上で過ごした男の平衡感覚は、修羅場においては何にも勝る武器だ。
鮫の防人、その鼻先へ。
海賊が人差し指を、突きつけた。指鉄砲にした右手、その銃口を。
「消し飛べや」
――激流が迸る。
マチルダを襲ったその威力は、砲撃に等しい。
「っ!」
ラブラスカの指先、虚空から生み出された瀑布は、防人をひとたまりもなく呑み込む。
トーリスも右手を同じくすると、水の勢いは倍となった。
マチルダを水平線まで押し流す。
それを見送ったラブラスカは、気取った所作で指鉄砲にフッと息を吹きかけた。
「これにて、邪魔者はご退場」
だがその表情は、ぞっとしなさそうに浮かない。
「……撃ち抜けてはいねぇな。ありゃ多分、生きてやがる」
肩に置かれる、トーリスの気づかわしげな掌。
ひやりと心地よく、彼は笑みを返した。
「トーリスは、どっか行きたいとこあるか? どこへでも連れてってやるぜ。知ってるだろ、俺の船なら七つの海も一跨ぎだ」
彼女が口角を上げ、頷く。
すると波止場から『王龍の赤傷』号まで、水の階段が掛けられた。
先に駆け上がりながら何度も振り返り、手招きするトーリスは、はしゃぐ少女のよう。
後を追うラブラスカは、あぁ、と思い出す。
まだ幼かった彼女を、深窓から連れ出し、自らの船へ招いた日を。
あの頃から、胸の中の輝きは、何一つ色あせない。
この船があれば。
この仲間たちがいれば。
この姫がいてくれれば。
この世の全てに挑む勇気が、変わらず湧いてくる。
「――――」
ラブラスカは、大きく息を吸い込んだ。
長く不在にした船に今、帰還した。その感動が、束の間言葉を奪う。
もう一度、大きく息を吸い込んだ。
「――鍵を返しな」
甲板にはサウロンと数人の水夫が、フジツボ人間に囲まれて、中央で追い詰められている。
鮫の商人が首から下げている、この船の鍵をじっと見つめて、ラブラスカはくり返した。
「船の鍵、返せ。
それとも魚の餌になりてぇか?」
口ぶりは剣呑だが、実際のところラブラスカに特別の害意はなく、鍵を返してもらえればそれでいい。
彼の船員はフジツボの身体をことさら大袈裟に揺すって、捕らえた連中を威嚇しているけれど、船長のそういう内心はみな察していて、要するにふざけて脅かしているだけのこと。
「っ」
息を呑み、鍵をぎゅっと握りしめたサウロンは。
ギザギザの歯を食いしばって、絞り出す。
「……この水夫たちは、俺に雇われていただけだ」
「あん?」
「船は、あんたに返す。
積んであるのは俺の商ってるブツで、食料やら織物やら色々だ、それも全部やる。
だから、せめて、こいつらだけでも、どうか」
「っほぉー」
感心した。
まず最初に部下の命乞いが出てくるとは、この鮫、なかなか。
「いいねぇ。
1000年経とうが、海の男の心意気は生きてるってわけだ」
「――あぁ、さすが私の従兄さんだ」
声がする。
曇天の雲間から、射し込む陽光に照らされた、船首。
留まっているのは、太刀を携えた海鮫人の女剣士。
「ま、マチルダ!」
「なおのこと、貴方の夢と財産を、賊になど渡すわけにはいかないね、サウロン」




