序:破 ≪攻防≫
元始、闘争はひどく簡素なものであった。
『武』と呼べるほどの研鑚もなく、ただ互いに力をぶつけ合う。
『技』が生まれたのは、ずっと最近のことだ。
千年の昔、この大地の全てが戦場だった頃。
剣術もなく、拳法もなく、戦士が極めたのは須らく暴力であったという。
それは、おそらくは現代と比べものにならぬほど、簡素かつ純粋な力。
「はぁぁっ!」
全身のばねと体重を乗せたマチルダの突きは、まさしく武技の極北。
千年前の暴力が、正面から受け止める。
「――っ!」
ラブラスカは己が胸を目がけた刺突に対し、あろうことか自ら顔を合わせ――太刀の切っ先を、前歯でがっちりと咥えこんだ。
いっそ暴挙、無謀と呼ぶべき行為。
けれども刃は、現にそれ以上通らない。
「オぉぉっ!」
せめぎ合う、力と力。
二者の激突に、街が震え、海が割れる。
剣を噛んだまま、口角を上げて凶暴に笑うラブラスカ。
対してマチルダも牙を剥き出す。笑みでなく、畏怖の表情で。
攻防の流れを数十通りは思い描いていたが。この男め。噛んで止めるなど、いくらなんでも読みの外。
だが彼女も達人だ。
思考に戸惑いの空白も開けず、直ちに次の流れへと移す。
すなわち、太刀の柄尻に、左手で掌打。
海賊の顔面が跳ね上がり、大きく仰け反る。
「ぐバっ!」
マチルダの流体操作剣技によって衝撃を余さず口内へ突っ込まれたラブラスカは、喉と鼻の奥から血を吐き零しながら数歩、たたらを踏んだ。
鮫の防人は追撃を……詰められない。
「な、」
押し寄せる波。彼我を共に洗う波。
その飛沫が無数の手に変わり、彼女の身体を縛ったのだ。
舌打ちを一つ、マチルダは両の肘を脇腹に添え、背を丸める。
発勁。
「喝ッ!!」
彼女の全身に剣気が漲り、鮫肌を震わせる。
触れているものなど、ひとたまりもない。
絡みつく手は元の水に崩れて弾け飛び、寄せては返す波もすべてマチルダを避けていく。
張り詰めた気功を維持したまま、マチルダは太刀で自らの足元を指す。
斬り上げる。
「――――」
斬撃が駆け抜けた。
空気と水と光を裂いて走るその一閃は、肉眼で目視可能なほど。
防人が放った旋風は、海賊を目指して真っ直ぐに。
しかし、ラブラスカの前に水が立ち上がる。
例のごとく美女の姿となったそれは、腕を大の字に広げて、愛する男を庇った。
両断され、水と散る乙女。
その背後でラブラスカが、血の滲んだ口元を拭っている。
「効いたぜ」
「……頑丈だな」
本来なら内臓までズタズタにしているはずの衝撃を食らわせたというのに。
ラブラスカの笑みは曇らない。
波止場から海水が捌け始める。
露わになるのは、波が運んできた泥土・岩塊だった。
見る間にフジツボが張ったそれに、水溜りがアメーバのように這い寄り、沁み込んでいくと。
ムクリと身を起こす、二足歩行の化け物が、十数体。
「我が歴戦の船員たちだ」
謳う調子のラブラスカに、フジツボ人間が全身を揺すって鳴らす。
美女の水霊は数人、彼女らは土塊に入らず、船長の傍に侍って腕を絡めた。
「せっかくの乱痴気騒ぎだし、皆で楽しもうと思うんだが。構わねぇかい?」
「あぁ、好きにするといい」
マチルダは、太刀を両手持ちに構え直す。
足の間隔を、肩幅より更に広げ、どっしりと腰を落とした。
「だが、木偶を何人並べようと同じだよ」
「言うねぇ。強い女だ、気に入ってきたぞ。
なぁあんた、俺の船に乗らねぇか?」
「1000年前には、もう少し気の利いた命乞いはなかったのか」
まるで靡かず皮肉を返すマチルダに、水霊が騒ぎ、ラブラスカは喉で笑った。
「残念だ――っなぁ!」
海賊たちが押し寄せる。
マチルダが瞠目するのは、誰より先駆けるのがラブラスカ本人だからだ。
傀儡を使役しながら、自らを前線に晒すとは。
船長自身が先陣を切る、その心意気は褒めたものかもしれないが、紛れもない愚行である。
太刀が迎え撃つ。
ラブラスカの足の下へ、海水が飛び込んだ。
疾走が滑走に変化し、一気にマチルダへ突っ込む。
剣閃のタイミングをずらすには十分すぎる加速だった。
太刀が振り抜かれるその前に、ラブラスカは刃渡りの内側へ辿り着き、マチルダと額をつき合わせる。
「よぉ!」
「このっ、」
海賊の両手が、防人の両手を捕らえた。
男女でダンスしようかというポーズにも見えるが、互いの腕は筋肉のあらんかぎり盛り上がり、互いをねじ伏せようと力比べ。
こんな密着から、出せる次の手は限られている。
海鮫人の女剣士は、覚悟を決めて口を大きく開き、敵の頭を齧り潰そうとするが。
それよりも一瞬だけ早く。
ラブラスカのほうが、マチルダの喉笛へと噛みつく。
「かっ、」
「美味いとこ、頂きィ!」
太刀の刺突すら止める咬合力だ。
首など容易く食い千切られてしまうだろう。
「……っ!」
マチルダは、渾身の発勁。
剣を極めた者は、自身すら剣と成す。
鮫肌から迸った剣気がラブラスカへと流れ込み、その全身をズタズタに裂いた。
「がっ!」
衝撃に痺れ、喉も両手も放すラブラスカ。
がら空きの腹へ、マチルダの蹴りが突き刺さる。
「ごぁ! っぁ!」
吹き飛ぶ船長。
それと入れ替わるように、フジツボ人間たちが遅ればせに殺到した。
攻撃するでもなく彼らは、ただ一様に肩口からぶつかって来るだけで、しかしその単純さと数はマチルダを圧した。
「く、」
押され、ひたすら押され、玉突きの要領で押す者ごと押され、ついに鮫の女剣士は海へ放り込まれる。
フジツボたちは我先にと飛び込み、彼女を追った。
――悪手だ。
海の中こそ、マチルダ・ヴィスケスの真骨頂。
「――――ふっ」
太刀がうねる。
あたかも巨大な鮫が、尾びれを翻すが如く。
太刀が唸る。
雄大かつ優雅とも言える剣の軌跡は。一瞬にして、十数個の土塊頭を、首から切り離した。
……波止場では、仰臥したラブラスカを、水霊の乙女たちが介抱している。
「だぁ……大丈夫、大丈夫だよ。なんともねぇって」
言うものの、彼の具合は良くない。
傷が浅くないのもそうだが――やはり素手など、海賊の本領ではないのだ。
船だ。とにもかくにも船。
船がなくては戦おうにも上手くない。あるいは……。
「やれやれだな……ったく」
そんな船長の傍へフジツボ人間の一人がおどおど、寄ってきた。
胸にボロボロの酒瓶を、ひしと抱いて。
それを見て、ラブラスカが目を輝かせる。
「おい? おいおいおい! それって? もしかして!」
乙女たちも押しのけて、この有能な、それでいて態度にさっぱり自信がない船員の肩を掴む。
こいつめ、生前からずっとそうだ。甲板長補佐のジギーポッツ。逆さ帽子のジギーポッツ。肝心なところで肝心なものを持ってくる。
「でかした! でかしたぞジギーポッツ! ははは! ジギー、ジギー、ジギー! ジギーポッツよぉ!
どこにあったんだ? ……船の中? 船倉の隠し棚? こっそり取ってきたのかよ! 相変わらずお前はぁ……出来る野郎だなぁ!」
部下のゴツゴツチクチク固い背中も、ラブラスカは構わず叩く。
照れ臭そうに身体をすぼめるジギーポッツ。
「ありがとよ、ジギー。
さぁてぇ。これでようやく、キャプテン・ラブラスカもマシになるぜ!」




