序:序 ≪襲撃≫
曇天に重たく圧し掛かられた、海上の華トレミダム。
その港へ寄り添った神聖なる船が、荒ぶる海とも無関係に身じろぎをくり返している。
『王龍の赤傷』号。
高波に濡れた龍の船首像は、感涙しているようにも。
甲板から、船主の海鮫人・サウロンが身を乗り出し、元より青い鮫頭をことさら蒼白にしている。
「ま、マチルダぁ!」
従妹の名を叫んだ。
見つめる海面には、波が騒ぐばかりで、影すら浮かんでこない。
目を波止場に移す。
そこには、人間の姿に鱗を備えた、人とも亜人ともつかない、男が一人。
まるっきり御伽噺の海賊の格好をして、じっと『王龍の赤傷』号を見つめている。熱っぽく。
「っ」
サウロンは息を詰まらせた。男と目が合ったからだ。
ただ視線を交わしただけで、この圧……。
この男。
明らかに、化生の者。
「――――」
トレミダムは騒乱に包まれていた。
昼下がりに突如、海から続々と上がってきた、二足歩行の化け物たち。
全身を岩やフジツボや海藻で覆った謎の襲撃者は、生ける屍がごとき緩慢な動きで街中に散って、住民を脅かした。
その最中、扉の樹から現れたのが、この海賊服の男だ。
立ちはだかった防人を軽くねじ伏せ、海へ放り込んだのが、この男。
「マ、チルダ……」
サウロンはもう一度、呆然と従妹の名を呟いた。
海神流天海剣の達人にして無双の剣豪。
神託者ジュンナイリクホの師匠であるマチルダ・ヴィスケス。
……彼女が、よもや、あろうことか、素手の相手に後れを取るなんて。
信じられない。
信じられない。
海が逆巻き、山のように盛り上がった。
マチルダが乗っていた。
「マチルダ!」
「――べっ!」
沈むことなく水に立ち、愛刀で天を指した彼女は、血とともに乱杭歯の一本を吐き捨てる。
先に一発、男に頬を殴打された際に折れたもので、しかし既に次が生え始めていた。
切っ先を、男へと向ける。
隆起した海水がマチルダの意志に従って、蛸か海月のように何本もの触手をもたげ、一斉に叩きつけた。
直撃、
、の寸前、
「っ」
マチルダは、太刀を握る手に、『零れる』感触を覚える。
強かに敵を撃つはずだった海水は、手懐けられた獣さながら、男の周りを楽しそうにグルグルグルグル。
流水の制御を奪われた。
内心に驚愕を湛えつつ、マチルダが跳ぶ。
波止場を目がけ、落下の勢いも乗せ、男の脳天を真っ向唐竹割り。
だがその前に、水が、ドレス姿の女を模して身を挺した。
肩口から胸にかけ、ざっくりと斬り込むが……それ以上はどれだけ力を入れても刃は進まず、また流体操作も通じない。
「無駄だぜ」
二人目、三人目と美女を模る水を侍らせながら、男は凶暴に両腕を広げた。
四人目、五人目の水がそこへ抱き着く。
「海と俺は相思相愛だからな」
「お前、何者だっ!」
吠えるようなマチルダの誰何に、男は事もなげに答えた。
「その船の持ち主だよ。返してもらいに来た」
「……馬鹿な」
絶句する。甲板のサウロンも同じだ。
船の持ち主……この船は、沈んでいたのを陸歩とイグナが引き上げ、サウロンに譲ったものだ。
その持ち主とは。
つまり、この男は。
「キャプテン・ラブラスカだとっ?」
神代に生きた英雄を名乗られて、しかしマチルダは、一笑に付すことは出来ない。
自身の愛弟子が今、如何なる存在を打倒しに出ているのかを思えば。
――時間遡行による死者蘇生。
マチルダは胸中の動揺を、戦闘者の意識で鎮め、ぱっと跳び退る。
絡め取られた太刀は、力でなく技で引き抜いた。海水の乙女が張力を失ったようにバシャリと崩れる。
その様を見て、「ほう」と口をすぼめるラブラスカ。
「あんたもなかなか、海を知ってるらしい」
当然だ、こちらは海中で産声を上げる海鮫人。
という買い言葉を呑み込んで、マチルダは問いを投げる。
「古の海賊が……蘇ったのか? 本当に?」
「まぁな。
そんで帰ってきてみたら、俺の船を勝手に乗り回してる奴がいるってんだから」
ラブラスカの眼光が、また甲板のサウロンを射抜く。その胸に下げられた、船長の証である鍵を。
それに応じてか、フジツボ人間がおびただしい数、海から現れて船をよじ登り始めた。
サウロンや船員たちが慌てふためき、櫂などの長物を持ち出して、乗り込まれるのを阻止しようと躍起になる。
視線を切ったラブラスカは、ずっと柔らかい態度でマチルダへ、肩を竦めてみせた。
「とはいえ、船の面倒を見ていてくれたこと、感謝はしてる。
勝手に乗ってた罪は、その恩で相殺にしてやるから、今すぐ返しな」
「ふざけるな」
一蹴。
辺りにはマチルダの剣気が満ち、空気がちりちりと張り詰め、ラブラスカの腕の中で乙女が水肌に細波を作った。
「あの船は、もうサウロンの財だ。
――お前の時代はとっくに終わったんだよ、海賊。
一度でも死んだ者は、二度と現世に介入しちゃならない。それが神の定めた法で、この世の理だ。
そのことを潔く受け入れて、再び冥海を渡るがいい」
「それこそふざけるな」
伝説の海賊はせせら笑う。
「法? 理? くだらねぇ! 俺は海賊だぜ!?
あらゆる軛に繋がれず、あらゆる自由を謳歌する!
終わってんならもう一度始めるさ、俺の時代をぉ!」
彼の周囲で水が騒いだ。
海が啼いた。
波止場に押し寄せた高波は、伸長の三倍か四倍か、マチルダとラブラスカを呑み込む。
その中を。
海賊は滑るように馳せた。
防人は裂くように駆けた。
「――オぉぉっ!」
「――はぁぁっ!」
二者の激突に、街が震え、海が割れる。




