結:結 ≪帰還≫
まるで綾取りだ。
イグナの両掌の間を幾筋も、真っ白な電流が渡る。
彼女はそれを、横たえた主の胸へと押し当てた。
「――っ! 、? かっ、」
バネ仕掛けのように跳ね起きる陸歩。
そのままゲホゲホと赤っぽい咳を零す彼の背を、イグナが甲斐甲斐しく擦る。
「リクホ様。ゆっくり、呼吸をなさって」
陸歩はもう二度三度、苦しそうに喘いだ後、はっきりと頷く。
「だい、大丈夫、ありがと」
「ご気分は、いかがですか?
……覚えていらっしゃいますか?」
「あぁ……だいたい、は」
幽体離脱の心地。
さっきまで陸歩の意識は、肉体の外にあった。
白昼夢の心地。
浮かび、揺蕩い、理性でなく情動のままに魂それ自体が暴れていた……。
ふと、陸歩は握ったままのそれに気づく。
剣に見立てた枝の、切れ端。
何かを察したイグナが、取り上げた。
「イグナ、っ、痛っつ……っ!」
「横になってくださいませ。傷の処置をいたします」
穿たれた右肩。抉られた左の脇腹。
今は流血はないが肉が露出して、怪我は軽くない。
だが陸歩は掌を見せて従者を制し、ぐっと歯を食いしばって力を込める。
滲み出した血。
それは見る間に凝固し、傷口を固く覆う。
イグナは眉根を寄せた。
「これは……」
瘡蓋……にしては。
ルビー、いやローズクォーツさながらに透き通り、煌めいているではないか。
すっかり快気した素振りで陸歩が立ち上がる。
「キアシアは、」
問うまでもなかった。
彼女の背がそこにある。
黒焦げで地面に転がるダンダルフォは、ヒトと思えないほど小さく縮み、そんな怨敵をキアシアはじっと見下ろしていた。
手には拳銃。イグナに作ってもらったものだろう。
抜き取ったばかりの自身の眼球を、結晶化する一瞬だけ待って、弾倉に込めた。
振り向いたキアシア。
思わず陸歩は息を呑む。
彼女の口にも銃。二丁のうち先に弾込めを済ませたほうを咥えていたのか。
空っぽの双眸からは鮮血が伝い、頬から顎に赤い筋を作っていた。
「ねぇ……リクホ。イグナ。お願い」
「…………」
「…………」
何を乞われているか、問い返すまでもない。
陸歩はキアシアの元へそっと寄り添い、銃握る左手を包んだ。
イグナも何も言わず同じくし、銃握る右手を包んだ。
彼女に代わって、照準をダンダルフォへ合わせる。
地面の上、黒焦げの塊が身じろぎする。
ダンダルフォはまだ、生きていた。
意思も意識もなく、ただ苦しみだけを味わい続けていた。
「…………」
何か、キアシアの唇に何か、言葉が昇っては立ち消える。
自らの同胞を食らい尽くし、いま地獄の苦痛の只中にある仇に、なんと吐き捨ててやればいいのか。
……結局、見つけられなかったようだ。
「…………っぁあぁあっ!」
胃の腑を焼くほどの憎悪を。
喉に痞えるほどの怨嗟を。
銃声が、代弁する。
銃口から吐き出されるのは、魔眼の奇跡。
十六の輝きが一筋となって放たれた。
過去より蘇りし亡霊の頭を、胸を、過たず貫き、弾けさせ、もう一度冥府へと沈める。
>>>>>>
あまりの光量に眩んだ目が、再び景色を捉えるまで、どれほど月日が経ったのか。
視界が戻ったとき、陸歩の手には鈴剣と篭手がある。
服をめくってみると、そこに回路神の紋様。
傍らのイグナと顔を見合わせる。
「戻って……」
「来た……ようです、ね」
エァレンティア大陸の山岳部。
件の峰は、岩肌ばかりで緑がない。城など影も形もない。
そうか、と陸歩は思い出す。浮遊城は『あの日』に天の果てまで上がって行ってしまったから、ここに落ちたという事実自体がないのだ。
木々の間からアインが現われる。
「よう、久しぶり」
「アイン……お前、どうしてた?」
「数ヶ月前をもう一度」
肩を竦めるアインに、陸歩もイグナもひとまず安堵する。
歴史の改変によって、羅刹との関係が書き換わる、ということも起きていないようだ。
いや、そもそも、記憶には『本来の過去』も『二度目の過去』も両方あって……。
「つまりこれは、魂が時間軸に囚われない証明なのでしょうか……」
唇に手をやって考え込むイグナ。
「そんなことよか」とアイン。
「敵は。リクホが殺ったか?」
「あぁ、いや……過去でダンダルフォは跡形もなく消したけど」
「ってことはカナの首級はまだか」
やおら鋭さを増す剣士二人。
鋭敏に五感を尖らせ、気配を探る。
……近い。
「…………」
「…………」
陸歩が鈴剣を抜刀。アインがフランベルジュを。
互いに向け合った切っ先が、閃く。
「――――」
「――――」
斬撃二振りが、同時に同じ幹を断つ。
晒される年輪。倒れる巨木。
その陰に、蹲っていた一人。
白髭と白髪を滝のように伸ばした老人だった。
齢にして八〇か九〇か。
皺の深い面相。肉も萎んだ痩躯。猫のように曲がった背。
左手にベルを握り、地面に這いつくばって、苦しげな呼吸を繰り返している。
「失敗……しました……ね……」
「っ、あんた、まさか」
「おいおい、見違えたなカナ」
陸歩は目を見開き、アインは嗤う。
見出そうと思えば、確かに面影が残っている。
カナだ。
呪いの反動なのか、あの青年が数十年分も歳を取って、そこにいる。
「まぁ……ダンダルフォ……あの程度の男では……これも、致し方ないことかも……しれません……が、」
しわがれ声の継ぎ目へ、アインが飛び込んだ。
まさに鬼神の踏み込み。一瞬でカナの目の前まで詰め、首を目がけて刃を走らせる。
だが、時の流れは未だ、カナの手中。
ハンドベルが、くすんだ音色を響かせた。
ぴたり、と動きが止まった。
この世の全てが。
その中で静かに、カナの独白だけが紡がれる。
「――ですが、時間は稼ぎましたよ。
ひとまずはこれにて。
またいずれ、時空の果てで会いましょう。ジュンナイリクホ。アイン――」
止まった時間が氷解し、解き放たれたフランベルジュが空を薙いだ。
「……ちっ」
すでにカナの姿はなく、木の葉だけが静かに舞い散る。
>>>>>>
「はっ、はっ、はぁ、は、はっ……」
過去を操り、『始めからいた』ことにして、自らの隠れ家に戻ったカナ。
薄暗い土蔵は彼の工房で、床に敷いた魔方陣にぐったりと伏し、息を吸うと吐くだけに努める。
その姿は老人、かと思えば幼児、青年に変わり、また老人に。
彼の身体で、彼の人生のあらゆる時点がフラッシュする。
「はっ、はっ、はぁ、は、はっ……」
消耗が激しい。
今回の時間操作は、彼の許容量を完全に超えていた。
短くなく休息を取らなければ、戦線に復帰することは難しいだろう。
魔女に報告を差し上げることすら、しばらくは。
「はっ、はっ、はぁ、は、はっ……」
呼吸が一向に落ち着かない。
「はっ、はっ、はぁ、は、はっ……」
喉がカラカラだ。
「はっ、はっ、はぁ、は、はっ……」
誰かが、蔵の扉を開けた。
「は……」
誰かの爪先が、目の前に立った。
「…………」
「――お前さぁ」
憤怒に染まり切った声は。
歌うように涼やかである。
「曲げちゃならないものを、曲げてくれたね」
「…………」
あぁ、とカナは悟る。
自分は逆鱗に触れたのだ。
彼には道理は神も同然。
彼には手順は母も同義。
回路神の神託者は、カゲロウの翅を広げ、燃えるように佇んでいる。




