序:破 ≪感涙≫
扉をくぐった先で、まず肌へと突き刺さったのは、剣呑かつ鋭利な視線だった。
気配を辿れば、あちらに、こちらに。
刀を帯び、来訪者を見張るジンゼンの防人たち。
もし少しでも不届きを働けば、彼らは音を置き去りにして斬りつけてくることだろう。
防人たちから送られてくる、警告の意が込められた大げさな鬼気に、陸歩は曖昧な笑みを浮かべた。
傍らのイグナへ囁く。
「前に来たときと、全く逆のこと言うんだけどさ。……ジンゼンて、穏やかな街だったんだな」
「えぇ。いきなり飛び掛かって来ないだけ、節度があります」
入街審査の役人を待つ間。
イグナからではない、機械の駆動音が耳に響き、陸歩は思わず身構えた。
あちこちから、鯉口を切る音が続く。
「リクホ様」
「あぁ……ごめん」
見上げれば、青空に浮かぶ大地が、そこに。
ここからは一本の糸がぴんと伸びていて、またあちらからも一本の糸。
それぞれに大きな匣がぶら下がり、わずかに風に揺られながら、人々を運搬している。
音の正体はあれだ。
「ロープウェイだ。そうだよな、ロープウェイだ。……また、ミサイルが落ちてきたのかと思った」
皮肉げに笑う陸歩に、イグナは労しそうにそっと目を伏せる。
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扉をくぐった先で、まず耳へと突き刺さったのは、タービンを激しく回転させたような機械の唸り声だった。
ドゥノーから一息でクレイルモリーへと出た途端のこと。
目の前の景色を、脳が理解するより前だった。
併せてイグナの裂帛が響く。
「リクホ様、直上!」
「え……、」
見上げれば視界を占める、真っ黒な弾頭。
とっさには殴り返すのが精いっぱいだった。
陸歩の赤熱した拳が触れると同時、ミサイルからも熱と光が溢れ出す。
爆炎。
熱風。
紅蓮の波に陸歩が呑まれる。
「リクホ様っ」
イグナの叫びに呼応するように、爆発の中から陸歩はまろび出た。
せっかくの真新しい服はすっかり焼け焦げて裂け、しかし身体には傷一つもない。
まとわりつく炎は、彼の肌へと吸い込まれて、ほどなく消えた。
「なんだ今のはっ! 無事かイグナ!」
「はい、リクホ様に庇っていただきました。申し訳ありません」
「無事ならいい! それよりも……」
陸歩は警戒の前傾姿勢を解かないまま。
イグナは虹彩をしきりにフォーカスさせて。
共に相手を睨む。
「はい。攻撃の意志は継続しているようです」
立ちはだかるのは、カラクリ製の巨人だ。
幾多もの部品が精緻に組み合わされ、芸術のようであるが、しかしセンスはだいぶ悪いと言わざるを得ない。
両腕の肘から先が砲門に挿げ替えられているのは、まだしも。
首から上が頭でなく、彫刻の女の上半身が生えているのだから。
おまけに下半身は蛇を模していて、部屋の外周をぐるりと巻いている。
クレイルモリーの扉が安置された部屋は、ドゥノーとよく似たドーム状で、しかしもっとずっと堅牢だ。
壁面を三六〇度、隙間なく鋼鉄で覆っていて、さっきの爆撃にもびくともしていない。
どういう技術が組み込まれているのか、彫刻が口元を動かし、声を発した。
【警告。貴方はクレイルモリーの正式な鍵所持者に登録されていません。】
「あぁ?」
【貴方が鍵を所持していること、またそれを用いてクレイルモリーへ立ち入ることは違法です。違法です。違法です。
速やかに鍵を放棄し、退去してください。
指示に従わない場合、再度の鎮圧砲撃を行います。】
「っつってっけど?」
陸歩が肩越しに振り返り、開け放たれたままの扉の先、リンリャへと水を向けると、彼女はまさに泡を食っているところだった。
「なっ、そんなっ!」
駆けてこようとするリンリャは、巨人に砲門を向けられて制され、ドゥノー側に留められる。
が、言葉は急いて詰め寄る調子のままだった。
「鍵は確かにクレイルモリーから譲られたものですっ! ドゥノーの鍵と交換で!
違法だなんてそんな訳……現に今まで何度も行き来させてもらってたじゃないですか! 交易だって毎月のようにしているでしょう!」
しばし間がある。
『上』に問い合わせているのか、このカラクリ自体が思案しているのか。
やがて巨人が返答した。
【当地の許可なく鍵を貸与、または譲渡することは違法です。
鍵所持者リストからタグ『ドゥノー』の関連者を一時凍結。
扉より退去し、正式な通達があるまで、クレイルモリーへは立ち入らないで下さい。】
「そんな……」
愕然とするリンリャだが、陸歩も同じ心境だ。
まさかここまで頑なに扉を閉ざす街があろうとは。
【警告。速やかに退去してください。警告。警告。警告。退去してください。】
「リクホ様。いかがいたしますか」
「お、」
Order. Code:Ignition. ……イグナへそう、本気で答えかける。
言えたらどんなに簡単か。
でも駄目だ。
それでは何の解決にもならない。
「……出直すぞ、イグナ。このままじゃ、大げさじゃなく、戦争になっちまう」
「かしこまりました」
二人は身を翻し、あとはもう一目散にドゥノーへ駆け戻る。
その背へは、最後まで巨人が【警告。警告。】と繰り返していた。
>>>>>>
冷静に対処できたとは思う。
あの場はあれしかなかったし、正しかったのだと思う。
もしあの時、短絡に任せてイグナを纏い、クレイルモリーの巨人を叩き潰していたとしたら。
陸歩はあの街から完全に敵と見なされていただろう。
そうなれば技術を学ぶどころではない。住人は貝のように口を閉ざし、陸歩に一切を与えないよう拒絶したに決まっている。
だから、あれでしょうがない。
いざこざにして、ドゥノーまで巻き込むわけにはいかなかったし。
クレイルモリーへは、歩いていくより、端から他はなかった。
それだけのことだ。
そう頭で何度も繰り返すのだが。
陸歩の心は沈んだまま、一向に晴れはしなかった。
もし。扉を用いず訪れても、クレイルモリーから締め出されたら。
もし。すでに手遅れで、自分はブラックリストに載っていて、何も教えてもらえなかったら。
考えれば考えるだけ、身体の内側が、鑢がけされていくよう。
そこへ、ジンゼンへ上がって。
建ててもらった社の様子を見て。
花瓶に生けられた一輪の花を、目の当たりにして。
不意に。
本当に不意に。
涙が止まらなかった。
突き放されたのが悔しくて、掴み損ねたのが苦しくて。
本当は押しかけたかったのだ、叫び出したいほど、義理も道理も踏みつけにして、あの街に。
涙が止まらなかった。
ほんの気遣いが嬉しくて、受け入れられたのが幸せで。
あらんかぎり感謝を伝えたい、叫び出したいほど、恥も外聞もかなぐり捨てて、この街に。
涙が止まらなかった。
情けないことに、ぬくもりを求めてイグナをかき抱き、すがってまで泣いてしまった。
溢れ出した想いの、最後の一滴までが流れ出るまでは、しばらくかかる。
……結局、昼もずいぶん過ぎた頃になって、ようやく陸歩の呼吸は平時のものへと戻った。
社の裏手には林があって、いくつか長椅子が据えてあって、イグナはその一つに行儀よく座り、陸歩は彼女の膝を枕にして。
「あー。あー、泣いちった。みっともねぇ」
あんまりバツが悪くて、陸歩は腕で目元を隠していた。
感じるイグナの柔らかさ。彼女の腹部に触れている右耳が心地いい。
イグナの掌が、頭を撫でてきた。
あやされているようで余計に気恥ずかしいのだが、今の陸歩には抵抗するだけの力もなく、されるがままである。
「みっともないことなど、ありませんよ」
「やだよぉ、女の子の前でメソメソするなんて、カッコ悪いじゃん」
「そうでしょうか。泣きたいときというのは、男女に関係なくあるかと思いますが」
「…………。なんか、ここまでの旅のこととか、元の世界のこととか、これから先のこととか、不安とか、期待とか、いろいろグチャグチャになって。訳わかんなくなっちゃった」
「無理もないことです。リクホ様は常識さえ逸脱した、本来想定すらされ得ない環境変化を体験しているのですから。心的負荷は強烈かと。
むしろこれまで平静でいられたことを鑑みれば、強靭な精神力と順応能力だと判定できます」
「ずっと必死だったからなぁ。
考えてみりゃ、こっちの世界に来てから泣いたの、初めてだ。肉体が超人化して、心にも影響を受けてんのかね」
「張りつめてばかりでは精神衛生上、よろしくありません。たまには発散することも必要です。
いつでも仰ってください。ワタシならば、膝でも胸でもお貸し致しますので」
「ははっ、そりゃあいいな」
陸歩は顔を覆っていた腕をどけて、真っ赤な目鼻で不恰好に、それでもはっきりとイグナへ微笑んだ。
「ありがとう、イグナ」
イグナがむんと胸を張る。
「このイグナが、リクホ様の止まり木になるのです」
「そういうの、どこで覚えてくるのさ」
苦笑を漏らしながら陸歩は身を起こし、しきりに顔を擦る。
「涙の跡、残ってる?」
「えぇ。少しですが」
むむむと口をへの字に曲げた陸歩は突然、頭部丸ごとを発火させた。
ひとしきり顔を焚火にし、水浴び後の犬のように首をふるふると振って火の粉を散らして、髪を手櫛で直してから。
「どう? 乾いたかな」
「はい。ただ、襟が焦げてしまいましたね」
イグナに指摘された部分に指で触れ、引っ張って目でも確認し、これくらいならと無理やり納得する。
「まぁ、仕方ないな。もうじき待ち合わせの時間だし。泣いて腫れぼったくなった顔をキアシアに見られるよりは、ずっとマシだ」
「え」
「イグナ? なにその、えってのは、……え?」
陸歩は全身の肌が泡立つのを覚えた。
イグナの見つめる先。
木の陰から、ひょっこりと顔を出した少女が一人。
「キ、キア、キアシア、シア……」
「あ、終わった? 結構待ったわよ。二人とも久しぶりー」
こいつ、いつからそこに――
「ちなみにあたしも気にしないから、男の子が泣いても。弱音くらい何時でも吐きなさいよ。あたしは耳以外貸さないけどね」
最初からだ……。
陸歩は悟り、今度は別の由来で目の前が真っ赤になった。




