結:転 ≪人形≫
むくりと身を起こす血溜まりは、あらゆる物理を無視しているに違いない。
のみならず、グニグニと波打ち、不恰好ながらヒトの形になった。
液状のまま乾きも固まりもせずに、五体を作ったそれは、自らの顔に触れ……目や鼻や口や耳、表情を窪みと出っ張りのみで再現する。
その姿。
陸歩に似て、いなくもないか。
かつてアインとの決闘に臨んだときのこと。
瀕死にまで追い込まれた陸歩から現れた、赤き影。
その正体不明の存在が、今また、ここに。
地面に飛び散った血痕も、じわりと浮かび上がって雫になり、次々に赤いヒトガタへと集まっていく。
蠢くそれらは、あたかも虫のようで、あまりに不気味。
「…………」
陸歩は、蹲って岩にもたれかかったまま、項垂れて力もない。
ヒトガタは、そんな彼を振り返って、首を傾げた。
「…………」
まるで、へその緒のようだ。二人の間をつなぐ数本の網。
陸歩の右肩、左脇の傷口から、血で縒られた管がヒトガタの背へと繋がっている。
うち何本かは動脈か。うち何本かは静脈か。日の光で流れが明らかで、二者の間で血流が循環しているらしい。
ヒトガタは、不定形の顎を不定形の手で触れた。
思案の素振りを見せる。
――Grrrrrrrrraaaaaaa!!
彼方から爬虫類の咆哮が轟いた。
ヒトガタは興味をそちらへ向け直す。
ずぶり、と自らの赤い胸へ、手を突き入れた。
ぬるり、と抉り出すのは、真っ赤な刃だ。
鈴飾りの剣を一振り、携えたヒトガタは、刀身の大きさ長さを二度三度、確かめるように変えて。
やおら、疾走。
その口元に浮かべた笑みは、おぞましいほどに精巧で。
「――――」
綱に引っ張られ、陸歩も引きずられる。
彼の赤い似姿が飛び跳ねるたび、ぐったりとした彼の身体もつられて飛び上がり、樹や地面に叩き付けられた。
ダンダルフォの元へと馳せる赤。
大地を踏みしめる足から火が点き、炎が回り、その身は紅蓮となって流星の速度に至る。
「――Grrrraaa!!」
獣の本能が嗅ぎつけたのか。
迎え撃つべく、正面から火蜥蜴が地響きをさせてやってくる。
……すでにダンダルフォは、再び鱗と紫炎を纏い、全身の魔眼をギョロつかせていた。
ヒトガタが鈴剣を構える。
大上段、火の構え。
「シっ――」
一閃。
……その一閃を、目撃する者もなく、受けたのが理性もない爬虫類であること。これほどの不幸はない。
その一閃こそが剣士の極致。
一切のぶれもない。一切の揺らぎもない。風切り音すらしないのは、力の流れに欠片の淀みもないがために。
自らも流体である存在が、流体操作剣技を繰り出すという、奇跡によって成された至高の一刀。
「――――」
ヒトガタ、火蜥蜴、両者はやはり音もなくすれ違った。
構えから残心まで、剣の一連があまりに濃くはっきりと、残像している。
魔眼の全ては瞬きも忘れ、赤い刃が宙に描いた軌跡に、うっとりと見惚れていた。
引きずられた陸歩が、地面に転がる……ようやく時が流れ出す。
ぱっと血風が舞った。
火蜥蜴の右前脚が、肩からざっくりと斬り落とされた。
バランスを崩した魔物の巨体が倒れる。
痛みに呻いて、残る手足、尻尾をバタつかせ、全身の目をグルグルグルグル。
大口を開けた。
舌を伸ばした。
切断された右前脚を絡め取り、頬張ったではないか。
そうまでして、魔眼を取り込んでいたいのか。バリボリと咀嚼すると、三本足で立ち上がり、目という目から一際盛んに紫炎を発する。
山林を焼き、天を焦がさんほどの熱量。
それを目の当たりに、ヒトガタは。
笑み、そして、有りもしない唇をぺろりと舐めた。
「ハ――」
跳んだ。
綱越しに余波を受けた陸歩が寝返りを打つ。
火蜥蜴の背へ飛びついたヒトガタ。
とっさに閉じられた魔眼の一つに、ねじこむように鈴剣を刺す。
のたうつ火蜥蜴。燃え盛る紫の火炎。
ヒトガタは顔色も変えず、ものともせず――ぱっと弾けた。
水風船が破裂する様を彷彿とさせる。陸歩の姿から、瀑布となった赤は、蜥蜴の巨体を丸ごと包み込む。
陸歩の顔が歪んだ。
「う…………」
夢現に垣間見るのは、この世界へ来る直前、故郷で受けた責め苦だ。
謎の薬液は火災を啜り、居合わせた陸歩を呑み込んで、その身に死よりも大きな痛みを与えた……。
まさに今、火蜥蜴が浴びているのも同じ苦痛。
「Grrrrrrrraaaaaa!!」
張り付いた赤に、紫炎を貪られる。
鱗の隙間から、魔眼の瞼から、沁み込んだ赤に侵され焼かれ毒される。
資質なき者は幸いだ。苦しみに長くは耐え得ず、蜥蜴の肉はすぐに壊死し始めた。
「Grrrrrrrrrrraaaaaa、ぁああっ!!」
魔眼は残らず沸騰し、巨躯は見る間に縮み、人に戻ったダンダルフォは、なお焼かれて。
「あっ! あ! あ、……ぁ、」
もはや悶える力もなく、頭からつま先まで、炭となって大の字に倒れた。
その上で逆巻いた赤は、再びヒトガタにまとまっていく。
今しがた蹂躙し尽くした獲物を見下ろし、首を傾げて。
「ア――――」
口を大きく、腹の辺りまで、大きく、開いた。
ダンダルフォにはとっくに残り火もないが。
ヒトガタはその炭を、自らに焼べるべく、かぶりつく――
「――? ――。」
背中から引っ張られた。
何事か。
何者かが、背中から陸歩へ繋がっている綱を、引っ張っている。
ヒトガタは身体を振り向けず、首だけを百八十度巡らせた。
その目のない顔を。
二人の乙女が睨み返す。
「リクホ様」
「リクホ!」
「…………」
イグナが、キアシアが、陸歩の身体を支えるように寄り添いながら、赤い綱を握っている。
ヒトガタは首を傾げた。
彼女たちの手。触れた赤に焼かれ、痛ましく煙まで上げているではないか。
ヒトガタは首を傾げた。
「リクホ様、どうか、お戻りを」
「リクホ! ダメ、戻って!」
「…………」
ヒトガタは……首を傾げた。
自分はどうしてここにいるのだろう。そういう態度だ。
あるいは、正気づいた、のかもしれない。
周りを見て、少女たちを見て、己が両の掌を見て。
ヒトガタはあっさりと崩れ、奔流となって陸歩へ殺到していく。




