結:承 ≪流血≫
それは、見たことも聞いたこともない現象。
「――っ」
イグナは静かに瞠目する。
蓄えた知識、積み重ねた経験、いずれにも当たらない目の前のこれは。
あるいは、神秘の出来事だろうか。
「キアシア、さん……」
呼吸一つごとに。
鼓動一つごとに。
キアシアは――生気を取り戻していく。
あっという間に肌へ血色が差していく様は、あたかも輪郭が輝いているようにも。
呼吸は穏やかに。
鼓動は平らに。
脈拍や体温もあるべき値に。
脳波計にも乱れなく、バイタルはやがて健康の域まで持ち直した。
こんな回復速度は、生物の常識を遥かに超えている。
この世の魔術よりも、よほど魔法のようだ。
いったい何故。
……考えられる要因など決まっている。
「う……ぅ」
「キアシアさんっ?」
呻く彼女に、イグナが身を乗り出す。
持ち上がったキアシアの左手が、か細く震えながら、覆った右目を擦る。
そうして、はだけた包帯から覗くのは。
「イグナ……」
ぱっちりと、紺碧の虹彩をした目が、両目が、焦点を結んだ。
身じろぎするキアシアは、病み上がりの様子すらなく、ただ寝起きのよう。
「あたし……」
「まだ起きては、」
言いかけて、口を噤んだ。
だって、起きてはならない理由がない。どのセンサーに照らしても、彼女には何ら異常はないのだ。
ほんの数分前まで瀕死だったことさえ忘れれば、キアシアは完全に平静。
「起きて、大丈夫なのですか?」
「そう……ね。何ともない」
起き上がって、立ち上がったキアシア自身、何事かと目を白黒させている。
全身を検めて……漲る、活力。
熱が湧いてくる。
「これって……」
「おそらくは、リクホ様の血の影響かと」
「…………」
キアシアは自分の胸に手を当てる。
そっと目をつぶり、力強い心拍の音色を聞いた。
ここに再び、火を灯してくれた陸歩とイグナを、心底から愛おしく思う。
「イグナ。ありがとう」
「いえ。ワタシは、何も」
微笑み合った乙女は二人、互いに頷くと表情を引き締めた。
「リクホのところに行かなきゃ」
「はい。急ぎましょう。
戦いは、まだ続いているはずです」
>>>>>>
ダンダルフォの、祈りの形に握り合わされた両手。
皮肉じみている。横向きに振り回されたそれは、ハンマーの破壊力だ。
「おぁらぁあああっ!」
唸る豪腕を、陸歩は剣に見立てた枝で受け止めた。
「っ、っ!」
握りさえ正しければ、剣は決して刃毀れせず、折れることもない。
流体操作の妙技は受ける衝撃も巧みに往なし……それでも殺しきれない威力が腕から肩へ抜け、骨が軋んだ。
歯を食いしばる。
「こ! っのぉ!」
反撃は泥臭くも、とにかく今出せるものを出す。
拳と枝で鍔迫り合いながら、陸歩はダンダルフォの顔面へ、頭突きを見舞った。
「ぶフぅ!」
面の皮は火蜥蜴の鱗ほど厚くなく、鼻血を零してダンダルフォがよろける。
好機だ。
陸歩は大上段、通称火の構え。
そして手首から切っ先までを、己の炎で本当に包み上げた。
「――はァっ!」
振り下ろす。
決然たる一刀は、ダンダルフォの肩から入り、身体を縦に大きく長く刻む。
だが。
「っ」
息を詰まらせる陸歩。
浅い。
剣士の本能が頭の中で真っ赤に響き、ほとんど反射で跳び退った。
額を掠める敵の爪先……一瞬でも回避が遅れていれば、陸歩のこめかみは蹴り抜かれていたはずだ。
「痛ぃぃぃっってぇなぁあっ!」
憤怒に血走る、ダンダルフォと目が合う。
奴の、双眸、ではない。
全身に沸いた魔眼のうち、再び開かれたいくつかと。
あの目で太刀筋を見切ったか。
「ごるぁああぁあぁぁあっ!」
魔物だったときより、よっぽど荒々しく猛り、岩石のように屈強な裸体に紫の火炎を纏った。
無数の魔眼は、代わる代わるに閉じたり開いたり、瞬きを繰り返している。
ダンダルフォの巨躯が、今また一回り、肥大しただろうか。
陸歩は、苦く呟く。
「再生、し始めてるのか……?」
考えてみれば、キアシアの眼だって復活する。
これほどの速さとは驚いたが、ダンダルフォも時間をかけていては、やがて火蜥蜴に戻っても不思議はない。
いや、その心はすでに、魔に飲まれつつあると見るべきか。
「グラぁああああrrrrrrッ!」
獣の咆哮を迸らせ、ダンダルフォが迫る。
その両手は拳でなく、ぴんと貫手で、紫炎に彩られたそれは凶悪な刃だ。
迎え撃つ陸歩の剣……枝など、容易く圧し折られる。
「なっ」
剣の術理を、単なる暴力によって破られた。
あまりのことに陸歩を動揺が襲い、それが致命的な隙となる。
ダンダルフォの手刀が翻る。
「っ!」
躱そうとしても、もう遅い。脇を擦過。
躱しきれなかった。ごっそりと腹の左側を削がれた。
「くぁっ!」
焼け付く痛み。
粘りのある血が噴き出し、地面を染める。
続けざまに、貫かれる、右胸。
「か、」
と陸歩の口から血が吐き零された。
その両足から力が抜け、膝が崩れる。
「Grrrぁああああrrrrrrッ!」
敵は無慈悲だ。
手で刺したままの彼を、強烈な前蹴り。
「――――っ!」
吹き飛ぶ。
何本もの樹々を薙ぎ倒し、最後には聳える岩に叩き付けられ、陸歩はようやく止まった。
「…………」
その身体はぐったりと力なく、流れる血で見る間に沼を描いていく。
遠く、ダンダルフォが爬虫類の喉で、天へと叫ぶのが聞こえた。
「…………」
もはや陸歩には、意識の有無も怪しい。
それでも。
こんな有様でも、彼は右手に、棒の切れ端を握ったまま離さない。
流れる血で、見る間に沼を描いていく。
その血溜まりが。
「――――――――」
むくり、と身を起こした。




