転:転 ≪碧空≫
涙で目の前がおぼつかない。
それでも迷わず走れる廊下。
キアシアは、自分がどうしようもなく、ここに囚われたままであることを悟る。
「誰か……誰か、いないのっ!?」
悔しくってたまらない。
「本当に、もう誰も、いないの!?」
声を張り上げても、どこからも返事はなかった。
「助かるんだよ! 今度こそ、助けにきたんだよ!
誰か……! 生きてさえ、いてくれれば……!
今度こそ、本当に、助けにきたんだから!」
どこからも、返事はなかった。
厨房からも。
収容房からも。
貯蔵庫からも。
機関室からも。
誰も。誰一人も。
結局また、こうなってしまった。
過去をやり直す羽目になり、けれども本来と同じに、キアシアは独りぼっち。
悔しくってたまらない。
これでは、弄ばれただけのことだ。
カナに。
ダンダルフォに。
「こんなことって……っ」
どうして、こんな。
許せない。
「――許す、もんか」
キアシアは目を拭った。
右の空洞から伝った赤で、頬がべっとりと染まる。
胸に火が灯った気がする。
それは陸歩のような鮮やかな紅でも、ダンダルフォが帯びる醜悪な紫でもなく。
もっと深く重く、重油のようにどす黒い。
その炎の名を、キアシアは知っている。
復讐心という、この世界で最も力となる、残忍な激しさ。
「――――」
かつて抱いたその熱に、キアシアの魂は再燃し、肉体を衝き動かす。
走った。
この弱り切った身体で、しかし、今は呼吸も気に留めなかった。
手足も心臓も肺も、全部他人事だ。
走った。
城主の間、玉座を目指して。
あそこに座れば、この城を意のままに操れる。
そうすれば。
「――――」
最短距離を走った。
否応なく思い出すのは、あの男の暴力。
気まぐれに呼び出されては、走って行っても遅いと殴られた。
息を弾ませていくと、見苦しいと蹴られた。
胸が、燃える。
「――――アアァっ!」
ついに激情は、咆哮となって少女の口から迸る。
走る。
止まれない。
扉に身体ごとぶつかって、部屋に転がり込んだ。
這いつくばった床で、ようやく心肺が酸欠を思い出し、キアシアは手足指先に冷たい痺れを感じながらゼイゼイと喘ぐ。
視線の先に、玉座を捉えて。
「…………っ」
芋虫かナメクジのように進む。今はこれが精いっぱい。
手を伸ばした。
肘掛に、指を、
壁が崩れた。
「なっ」
あまりに悍ましい、巨大な蜥蜴が顔を出し、生臭い吐息を撒き散らしている。
チロチロと口の端から覗かせる舌が、いったい何を探しているのか。キアシアにはすぐ察しがついた。
全身に纏った目は固く瞑られ、それらが今、一斉に、
開く。
無数の魔眼に見つめられ、キアシアの肌が粟立った。
それは、恐怖からではない。
「――っこの、」
よくも。
同胞の証であるその瞳は、赤に青に黄に緑に。
その奇跡の虹彩が、こんな下衆に全て奪われてしまった。
もはやその目と見つめ合おうと思ったら、鏡を覗くか、姉に会うかしかない。
キアシアの中で、一層の激しさが鎌首をもたげ、心臓の鼓動に乗じて血管を巡っていく。
「――キアシアぁ!」
蜥蜴の奥、向こうから陸歩の声。
白銀の天使の姿が、焦点の外にぼんやりと見える。
「逃げろ、キアシア!」
逃げろ。
そう促され、キアシアは。
飛びついてくる蜥蜴を、転がって躱した。
もう一度転がって、立ち上がる。
「ごめん、リクホ……っ!」
そして駆ける。
でも、逃げるのはもう嫌だ。
「こっちよ、トカゲ野郎ぉ!」
あぁなんて勝手なんだろう、とキアシアは自身を軽蔑する。
陸歩とイグナをこの事態に巻き込んだのは、自分なのに。
でも、もう、逃げるのは嫌だ。
「――そっか」
と、キアシアは今さらになって気付いた。
『あのとき』は助けたい、助かりたい気持ちがいっぱいだった。
だから勘違いしたんだ。
復讐の、代行者を求めるなんて。
あのとき、神に祈るべきは、救世主ではなかった。
自身に復讐の力を与えてくれるよう、そう乞うべきだったのだ。
キアシアは今さらのように悟る。
自分の手で復讐を遂げなくちゃ、この先もずっと収まったりしないんだ。
最短距離を走った。
背後では、火蜥蜴が吠え猛り、紫の炎を帯びて追ってくる。
「そうよ、来なさい、あたしが食べたいんでしょ……!
来い。来いっ。来い!
ついて来い! ダンダルフォ!」
最後のドアは、走る勢いそのまま、身体でぶつかって押し開ける。
近すぎる空の青さが目を焼いた。
相変わらず、見事な空中庭園。
つい最近まで、それこそ今朝方まで手入れされた形跡があって……みんな今朝まで生きていたんだと思い知り、胸が張り裂けそうだ。
背後で崩落の音。
ダンダルフォが出口で巨体を詰まらせ、二度三度と身を揺すっているところだ。
その間にも、浮遊城は上昇を続けている。
さっき玉座の肘掛に触れたとき、キアシアがそのように軌道を変えた。
このまま放っておけばどこまでもどこまでも、昇っていくのだろう。
きっと月までだって。
とうとう、火蜥蜴が庭園に這い出た。
キアシアは、向けられる視線の全てを睨み返しながら、ゆっくりと後ずさる。
「……今となっては、カナに感謝すべきかしら」
果たしてダンダルフォの、鱗が生えた脳みそには、言葉が分かるかも怪しいが。
それでもはっきりと告げた。
「あんたを、あたし自身で、殺し直せるんだから!」
蜥蜴の咆哮。
振り返ったキアシアは、庭園外縁へ、あとほんの数歩を弾むように駆けた。
柵の上に立つ。
その先はもう空で、見下ろせば雲海、隙間からぼんやり緑と茶の大地。
肩越しに見れば、状況が分かっているかも怪しいダンダルフォが、大口を開けて突っ込んでくる。
「――キアシアぁ!」
追いついた陸歩が潰れた出入り口で、瓦礫を押しのけ、掻き分けようとしていた。
今のキアシアの胸中は、漆黒の炎でいっぱいだが。
ちらりと、赤い火の子が混じった気がした。
「……ごめんね、リクホ」
「キアシアぁ!」
二人の間を直立した蜥蜴が遮り、キアシアの視界は魔眼だらけの腹部でいっぱいに。
彼女は、とっくに、躊躇いもなく。
「来なさいよ! ダンダルフォ!」
宙へと、身を投げた。
獲物に釣られたダンダルフォも、続けて。
「キアシアぁ!」
「リクホ様! Orderを!」
イグナが叫ぶ。
大切な仲間が命を投げ出す様を目の当たりにし、後先の判定もなく。
可能なかぎり主に使わせまいと決めていた禁断の呪文を、自ら求めて。
「Orderを! リクホ様!」
「Order! Code――」




