承 ≪名前≫
肌の表面がびりびりと痺れる。
それは何かの比喩とか、緊張のためとかではない。
陸歩の肌の上で、本当に雷が弾けていた。
ここは、重く立ち込めた雷雲の中。
天文台から一人、この崩れ切った天気へ出掛けた陸歩は、稲妻の閃く雲間を物思いにふけりながら歩く。
歩く、というより、泳ぐといったほうが正しいか。
一寸先も視認が効かない。
すぐに全身がずぶ濡れに。
雷がこめかみを射抜いて目を眇めた。
「…………」
肌の表面がびりびりと痺れる。
それは無意識が、訪れたモノへ畏怖しているためか。
「――まずは、褒めておこうか」
やっぱり顔は拝めないか、と陸歩は嘆息した。
いつの間にか傘の下にいる。
背中合わせになった誰かが差している傘だ。
この世界には有り得ない、似つかわしくもない、ビニール傘。
雲の中にいるのだからそんなもの、何も役に立たなさそうなのに、結界のように雨風がピタリと寄せなくなった。
背中合わせの誰かは、フードを被っていて、肩越しでは誰だか分からない。
きっと振り返っても分からないままだろう。
そう直感した陸歩は、そのまま挨拶を口にした。
「どうも、ご足労いただきまして」
「来るともさ。喜び勇んで来たともさ。君ったら、ボクを呼べるほどに成長して。
答え合わせだろう?」
答え合わせ、という完全にこちらの意図を先回りした語。
全能者の物言いに、陸歩はまた嘆息した。
「はい、神様。貴方の正体について」
に、と口角を上げる気配がする。
陸歩に信仰の復活を依頼した神。
今、ここまではっきりと姿を取り戻していた。その所作一つがありありと察せられるほど、この場に濃く、確かに。
「予定より少し早いね」
予想ではなく予定。
陸歩はもうため息はつかず、肩を竦めるに留めた。
「もっと後のはずでしたか」
「うむ。確かに君の建ててくれた社はそこそこの数になった」
「ここのところ新規の顧客を獲得できてませんが」
「自覚があるなら頼むぞ。困るのは君も一緒なんだから。
――で、その社を拝む人間も相当数いる」
それは初耳だ。
社の約束を取り付けたらすぐ次の街へ発つ旅を続けてきたもので、実際に設置されたものがどうされているかは、そういえばそれほど気にしてきていない。
そうか、拝む住人がいるのか。
その人達を信者と呼ぶのはちょっと強引であろうが、信仰の芽生えとしては上々なのかもしれない。
「とはいえボクの復活にはまだまだだ。
実はそれほど確かに力を取り戻してはいないのだよ、ボクは。
君が認識しているほどはね」
「……と、言いますと?」
こちらは全知でも全能でもないんだから、もっと噛み砕いてほしい。
肩を竦めるのは神様の番だ。
「ボクがはっきり見えるのは、君の目が『開いた』からだってこと。
世界の真実を知ったろ?」
「えぇ。まぁ」
「それで視えてる世界が『上がった』のさ。
ボクの正体ってのを推理できたのも、そのおかげだ」
「実際にしたのは、オレじゃなくってイグナですけどね」
正直、陸歩の頭には余る真実だった。
だから相談も兼ねて、知り得たものは全て仲間に共有している。
それを受け、イグナは様々な推察を並列で行い、リスト化してみせた。
そのうちの一つ。
「神様。貴方は――陳腐やありきたり、ベタを嫌うナユねぇの心、その化身だ」
にひ、と神様は笑った。
「うむうむ。根拠は?」
「神様は全員、概念と抱き合わせのはずだ。
たとえば、炎熱とか、治癒とか。共鳴に流転に回路。
なのに、貴方は人々から忘却されたっていうじゃないか。
忘れられてしまう概念なら、それは――こう言ってはなんですけど――世界の運行や、生きていくのに必須のものではなく、元素・要素に類するものではない」
「ご明察だな。
それから、ボクの神威もヒントになったか」
「えぇ。少数を尊び、多数を弑する。
珍しいもの、目新しいもの、ざらにないものを喜び、保護し、愛し、そういったものに価値を見出す神威」
……ナユねぇにも、そういう気持ちがあったのだ。
陸歩は胸を突かれたような思いがする。
あれだけ映画や漫画やアニメや小説、ありとあらゆる物語を食していた人だ。
何で気付かなかったんだろう。
きっと、本当は飽きていたはずだ。
あの何もかもが不自由な瓶の中で。
飽きる。
それがどれほど恐ろしく息苦しいことか。
ナユねぇはいかなる物語も貶すことはなかった。
いつもどれも楽しんでいた。ように、見えた。
その内心で、どんな葛藤があったのか。
想像するのも総毛立つ。
最初は大好きだったはずだ。
映画も漫画もアニメも小説も。
それが次第に楽しめなくなっていく。
それが次第に面白くなくなっていく。
物語にはセオリーが、パターンがある。
どこかで見たキャラクター。
どこかで見たストーリー。
どこかで見た台詞。
どこかで見た……。
未知は貴重となり、既知ばかりが積み上がっていく。
飽きと無縁でいられる知性は存在し得ない。
知っている物語に酔い続けるのは不可能だ。
飢える。
新しい刺激が欲しい。
見たことがない世界が見たい。
新しい興奮を。
新しい何かを。
この神は、そんなナユねぇの心の暗部が、ナユねぇの世界で具現した存在。
「それでも……貴方は忘却されていた。
それでも、オレは貴方の神威を使うことを厭う気持ちがある」
「その通り。
原初神――我が母は聡明だ。
きちんと分かっているのだよ。『王道』ってやつの大切さもな。
だからボクは、概念の奥底に沈められている」
「……貴方を蘇らせて、本当にいいんでしょうか」
それがナユねぇが自身の心した処置かもしれない。
『飽き』それ自体を忘れること。
何でも楽しむという不断の努力の結晶。
この神の復活は、ナユねぇに砂をかける真似に等しいのでは。
神は、さして興味もないように、必死さが何も滲まない平坦な声音で答えた。
判断の全部は陸歩に任せる――そういう意味の態度か。
「ボクの存在は、我が母がこの世界に向ける厳しさの表れだ。
我が母は、この世界を陳腐に、ありきたりに、ベタにしたくない。
だからボクは君に接触できたのさ。
我が母は自分の物語を砥ぎたがっている。ボクと、君によって」
「…………」
陸歩は翼を広げた。
掌に光輪を浮かべた。
「『凡庸廃絶』」
彼から、雷とは別の紫電が迸り。
暗雲が残らず掻き消える。
後には、抜けるような碧空。
「それが、この神威の名前です」
「最初の宿題に、ずいぶんと時間がかかったな」
カラカラと笑い、カラコロと履物の音をさせながら、神様が背中から離れる。
今回の問答はここまでか。
「…………」
陸歩は前だけをじっと見ていた。
振り返る不敬をする度胸が、どうしても湧いてこない。
そのくせ、神様のほうは振り返る。
その気配がする。
「ちなみに、ボクの名前は。答えられそうか?」
また難しい宿題だ。
「……次の機会でよろしいですか」
「うむうむ。励めよ。
――我が母を頼むぞ、リクホ。必ず取り返せ」
それは、神に命じられるまでもない。




