後:転 ≪物語≫
「――ねぇ、ここじゃない世界を見に行きましょうよぅ」
突然、目の前に豊満な胸の谷間。
陸歩はぎょっと顎を引く。
姿を現した魔女は息のかかる距離で、わざとらしく前かがみになっていて。
彼は嫌悪も露わに椅子ごと下がった。
「そぉんなに嫌がることないじゃなーい」
「うるせぇ。
……どこに、何って?」
「だからぁ。ここじゃない世界。
い・せ・か・い。
見に行きましょ?」
肩を左右へ大袈裟に振りながら、にじり寄ってくる魔女は、迫る蛇を思わせる。
差し伸べられる魔女の、右手。
「ほぉら」
「…………」
おずおずと、警戒しながら、その掌へ左手を置く陸歩。
「じっとしてぇ?」
「おい、」
蠱惑の五指が、陸歩の篭手に這った。
掌の穴へ、魔女が図々しくも指を突っ込む。
思わせぶりに掻き混ぜたかと思うと。
摘まみ出す、一本の鍵。
周囲の闇が晴れる。
暖かなセピア色をした、ここは。
「……図書館?」
陸歩は自分の篭手から、鎖でぶら下がった鍵を見た。
ミクストンの鍵だ。
帝立大陸図書館。レドラムダ二代女帝の陵墓を兼ねた蔵書の街。
実際に空間を渡ってきた、わけではあるまい。
本物のミクストンではないはずだ。
元より静謐に彩られた街だが、ここには人の気配が一切なかった。
魔女の作り出した幻想か、箱庭か。
「ここが異世界ってか」
まぁ、陸歩にしてみればこの世界のどこへ行ったって、異世界には違いないが。
「違うわよ」
と言いながら魔女は、あっちの棚を覗き、そっちの棚を覗き、ブツクサとしている。
「こっちかしらねぇ。
もぉ多すぎじゃなーい? 何冊あんのよぉ。
……あぁ、こっちかしら。
ん。これなんていいわね」
一冊を抜き出し、それをぺらぺらと捲りながら、さらに奥へ。
「どこ行くんだっての」
「はいリクホくん、こぉれぇ」
ポイと投げられたものを慌てて受け止める。
400か500ページの厚さの本だ。
表紙に金の字で刻印されたタイトルは。
「……『ジャンジャック・ジャーニィと聖杯の伝説』?」
「読んだことあるかしらぁ? 有名な児童小説よぉ?」
「いや……」
「それ。異世界ね」
「はぁ?」
本の袖や裏表紙に記載されたあらすじを見たところ、『ジャンジャック・ジャーニィと聖杯の伝説』はファンタジー小説であるらしい。
あぁ、つまりそういう意味か?
平凡な農家の次男坊だったジャンジャック。
ある日、旅の行商を助けた折に、一杯の葡萄酒を貰った。
その杯が聖なる遺物で、彼はこれによって不死性を得て、神の都を目指す……。
舞台となるのはヤーロピオなる大地で、こことは違う世界の出来事として綴っている。
呆れた。
頓知か。
その間にも魔女は、目についた本を次々に棚から取っていく。
「はい、これも異世界」
「おい」
「これも異世界」
「もういいって。分かったから」
「これも、これもそうね」
「魔女……いい加減に……」
「これとこれとこれとぉ。これとかぁ」
「もう持てないっての!」
やっと気が済んだらしい魔女が振り返ったとき。
陸歩の腕の中には20以上の本が積み上がっている。
『ポー・シェン旅行記』。
『英傑王』。
『バルミシャンズ・バルーム、月へ行く』。
『ベントリクス谷の七龍兄弟』。
etc……。
「ねぇリクホくん。
貴方、寝る前に空想したことは?」
「あぁ?」
「頭の中に、ここじゃない世界を作って、思いのままのモンスターを生み出して、好きなように冒険したことは?」
「…………。
いや……ある、けど」
くすりと魔女が微笑んだ。
嘲りのない、友人がするのと変わらない微笑みだったが、かえって陸歩は気恥ずかしくて、顔を中心に体温が上がる。
「なんだよっ。
結構みんなあるだろっ、それくらい」
なんだか律儀に本を抱えているのが馬鹿馬鹿しくなってきた。
どうせここは本当のミクストンではなく、蔵された本も偽物に違いないのだ。
手からバラバラと、魔女の言うところの異世界を床へ落とす。
だというのに、魔女は性懲りもなく、棚から次の一冊を手に取った。
「あるわねぇ。
アタシだってあるわよぉ?
っていうか毎晩よ」
「あっそっ!」
「それも異世界。
アタシの空想した世界は、アタシが原初神。
貴方の空想した世界は、貴方が原初神ってわけね」
ぴたり、と陸歩は息を止めた。
「…………この世界は、ナユねぇの空想だってのか?」
「飲み込みが早い男の子は、会話しててイラつかないから好きよ」
「バカ言えよ! 虚構と現実は違うだろ!」
「違うかしら?」
「違う! 現実とフィクションは違う! 現実とバーチャルは違う!
息をして、汗をかいて、心臓が鼓動して、自分が確かに存在しているところが現実だ! 空想の世界とは本質が違う!」
じゃあ、と魔女は手にしている本を指で叩いて。
「リクホくん。
この本と、リアルの差って、なぁに?」
「だから!」
「この本の中で、登場人物たちは一生懸命、毎日を生きているのよ? 真剣に。
彼らだって息をして、汗をかいて、心臓が鼓動して、その世界に確かに存在している。
『これはお芝居だ』なんて思ってる人は、本の中にだって……あぁまぁ、そういう本も探せばあるんでしょうけど。
とにかく。
もし彼らと同卓で会話ができたら、きっと、アタシたちと同じだと思わない?」
じんわりと混乱していく自分自身を、陸歩は痛感して、頭を振った。
「そんな有り得ない仮定に意味なんかねぇ」
「有り得ないことないでしょう。
現に今、アタシと貴方が対面してるじゃないの」
「馬鹿言えよ……」
なんとか否定の材料を絞り出そうとし、陸歩は、よろけた。
倒れそうになる身体を支えるために本棚へ手を突いた。
そこに並ぶ、背表紙、背表紙、背表紙。
――もし、そうなら。
もし魔女の言う通りなら。
「オレは、なんなんだ?」
物語の登場人物?
自分も。
魔女も。
イグナもキアシアも。
アインもオルトも。
師匠もフェズも女帝様や妹姫様もユノハもジンゼンのおやっさんたちもリャルカもカナも。
これまで出会った人たちも全部。
自分は。
循内陸歩という存在は。
『現実』からやってきた、という設定の、虚構の存在?
「だからね、リクホくん。虚構も現実もないんだってば」
俯く陸歩の前に、しゃがみこんだ魔女が、その隠した眼で見上げてくる。
「一緒なの。どこでも一緒。存在ってもののあり方は、どこの世界でも同じこと。
貴方はさっき、本質が違うって言った。
違わないの。本質として一緒なの。
アタシもリアル。貴方もリアル。床に散らばる本の中のキャラもリアル」
「でも!
だって!」
ここがナユねぇの想像の中だというのなら。
「ならリアルは、ナユねぇのいるとこだ!」
「『そこ』だって誰かが描いた世界でしょうよ」
さらり、と魔女は言った。
今、なんと言われた?
陸歩はついに呑み込めない。
「え?」
「世界はどこだって同じよ。
必ず誰かの頭の中。
貴方のいた元の世界? それだって誰かの考えた空想よ。
その誰かのいる世界もそう。また『上』の誰かによって描かれている」
世界は、ひたすらに連なっていく劇中劇。
無限に繰り返される入れ子構造。
貴方の実感する現実も、誰かが机上か夢枕で練った空想。
魔女は詠う。
陸歩は、手を突いていた本が急に恐ろしく……静電気でも弾けたみたいに、飛び退いた。
「じゃあ……オレは……なんなんだ?」
「だから。
貴方は実際に存在するの。
『上』の世界から見たら文字の集まりよ。
『下』の世界から見たら……神様の、同類かしらね」




