前:転 ≪赤子≫
母の手から陸歩へ渡った途端、赤ん坊は泣き出してしまった。
小さな小さな身体から、あらんかぎりの声。
彼はてきめん狼狽る。
「ど、どうしたら? どうすればっよろしいので!?」
陸歩のいかにも不慣れな様子にレディナが、女帝でなく母親の表情で微笑む。
「大丈夫。優しくあやしてやってくれ。ほら、揺り籠になったつもりで」
「は、はいぃ」
優しく。
優しく。
鬼気すら迫る陸歩の腕の中で、レドラムダの次代を担う姫君は、だんだんと落ち着き始めた。
額にしわを作り、じっと彼を見つめる。
ほぅら、とレディナの目が細まる。
「リクホがいい人だと、もう分かったんだ。
最初は、伝わってくるあまりの強さにびっくりしたんだろうな」
「きょ、恐縮ですっ」
「君、何をそんなに鯱張っている?」
そりゃあ緊張もする。
こんなにちっちゃくて、柔らかで、誰かの庇護を欠かせない存在なのだ。
そんなものを腕に任されて。
もしうっかり、なんてことになったらと思うと……想像するだけで、ぞっと。
しかもこの幼子は、レドラムダ大陸次代女帝にあらせられるときたら。
陸歩は息継ぎさえも慎重に。
「お、オレ一人っ子だから……赤ちゃん抱っこしたこととか、なくって」
「はは、なるほどな。
では今のうちに慣れておくといい。いずれは君も誰かの父になるのだろうからな」
「そう、です、かね?」
いまいちピンとこないけど。
くぱ、と姫は小さな口を精いっぱい開けて欠伸した。
まだほんの生まれたばかりなのに、もう彼女には美人の片鱗がある。
母親似か。
あるいはその目鼻立ちは、神譲りの造形か。
髪の毛はまだ薄く、肌は卵のよう、頬っぺたはプクリと丸く大きく横顔は空豆のシルエット。
率直に。
「かぁわいい……っ」
「そうだろうそうだろう」
レディナの顔に常の威厳がなく、子煩悩親馬鹿のデレデレ顔に溶けるのも納得だ。
こんな可愛いもの、天使以外に形容のしようがあるだろうか。
いつだったかイグナの言っていたことを思い出す。赤ん坊は何でも可愛いものだと。
可愛いほうが愛情を、恩情を、同情を受けやすい。
可愛いほうが親に強く守られやすい。敵に情けをかけられやすい。
可愛いほうが、生存確率が上昇する。
赤ん坊が可愛いのは自衛の手段。庇護欲を掻き立てる形相機能。
愛の防壁。
姫君は、陸歩の右手の人差し指を、そのちっちゃな手でしっかりと握った。
それでとうとう安心したのか、ウトウトし始め、もう一度大きな欠伸。
「かぁわいいぃ」
「そうだろうそうだろう」
……なんだか、理由も理屈も関係なく、可愛くなってしまう。
子どもにはそういう魔法が込められているんじゃないだろうか。
「こんなに小っちゃいのに、すごくあったかい……」
「大人よりも体温が高いからな、赤ちゃんは。
でもそれだけじゃなくって、胸の中がこう、ポカポカ豊かになるよな」
「えぇ。とても」
この子こそが財産だ。
この子こそが至宝だ。
ただの友人である陸歩にさえそう思えて仕方ない。
母親の抱く情はいかほどか。
トクトクと、鼓動が聞こえる。
小さいながら、はっきりと。
この子はもう、懸命に生きている。
暖かな、命。
「有難う御座います、女帝様」
御子をお返ししながら、感謝を口にする陸歩に、レディナは笑った。
「礼を言うのは私だろう? 君に抱いてもらえて、この子の未来もさぞ安泰だ」
「いえ。こんな気持ち、初めてなので。
とても貴重な経験でした」
「うむ。
これはとても特別な――それでいて、人がずっと重ねてきた、尊い経験だな」
君のご両親とてそうだったに違いない、と穏やかに続ける。
「え?」
「リクホ。君の父上と母上も、今の君と同じものを感じたはずだ。
そしていつの日か、君が父となったなら。再び、いや今以上に、それを感じるに違いない。
愛情という名の魔法さ」
「…………。
誰もが、そうでしょうか」
「もちろん。
人は誰しも、最初は赤子だ。大人になってから生まれてくる者などいない。
誰だって、誰かの愛に護られて、成長していくんだ。
今ここに存在することは、誰かに愛されてきた、紛れもない証拠なんだよ」
今ここに存在するなら。
誰だって。
>>>>>>
「…………」
地下牢へ一人訪れた陸歩に、オルトは上げた顔を怪訝に歪めた。
「あぁ? なんか用かよ」
「……オルト。お前さ。
家族ってどうしてるんだ?」
思いがけない問いだったのか、男は虚を突かれたように数秒黙す。
やがて、けっ、と鼻を鳴らすと。
「そこにいるよ」
と、枷で壁に繋がれたまま、顎をしゃくる先。
彼の足元で、影は、こちらも枷で縛られている。魔術的拘束で、これによってオルトが兵力を引き出すのを阻害しているのだ。
陸歩は、その答えが意味するところを、厳しい視線で問い質した。
もう一度鼻が鳴らされて。
「親父もお袋も、弟も妹も全員、おれン中だ。呑んじまったよぉ一人残らずなぁ」
「そうか。……悲しいな」
「あぁ!? 悲し、っはぁ? 意味わっかんね。
くっだらねぇこと言ってんじゃねぇぞ失せろゴルぁ!」
そうか、と陸歩は踵を返した。
「悲しかったんだな。
お前は、大切な人を悼むことが出来る人間なんだ」
「おいおいおいおい! 聞き間違いかよ。
おれがぁ? はぁ? なんだってぇ? 阿呆かテメェは」
「お前は、大切な人を悼むことが出来る人間だ」
きっぱりと言い切って、反論は一切許さず、陸歩は牢を後にした。
腹が据わった気がする。
心は決まった。
ならば――宴席の準備だ。




