破:前 ≪聖域≫
岩石の海岸から上陸した途端。
その島がどういう場所か、容易に察せられた。
まるで幕を潜ったように『外』とはふっつりと、雰囲気というか、匂いが違う。
目前から始まる森は、全ての樹木が太く背が高く、大きい。そのスケールは、自分が小さくなったかと錯覚するくらい。
鳥の声、虫の声が澄み切っている。
優しく吹く風さえ清らかだった。
背後の海の、波音が大人しくなったような気がした。
温かい。
と同時に、ぴんと張りつめて冷たい。
ここは。
この気配は、知っている。
ここは聖堂だ。
ここは祈りと救いの場所。
呼吸も畏れ多く、おしゃべりなんてとてもじゃない。
この男以外は。
「なーんか、空気が甘いな。周りが海なのに磯臭さがねぇ」
ボートから気安くひょいと島へ上がったアインは、しきりに鼻をスンスンとしている。
こいつにデリカシーを期待するのも無茶かもしれないけれど。
「…………。森が豊かってことなんじゃないの」
陸歩は係留ロープを手繰りながら、おざなりに答える。
ふと思った。
「オレの名前はアインヴァッフェ・イリュー」
「はぁ?」
突然陸歩が口走った意味不明に、アインが顔をしかめる。
イグナは意図を察したようで。
「まだ、嘘が吐けますね」
「この島全部がイェーニヒじゃないみたいだな。
やっぱ、泉の傍だけがそうなのか」
森の中を少し歩く必要がありそうだ。
とはいえ大よその場所は教えてもらっているし、島自体も大きめの公園くらいで、子どもの足でも踏破できる規模である。
キアシアに手を貸して、ボートから降りて。
荷物を持って。
一番重要な樽はアインが背負った。
「――行こう」
冬の最中にあっても木々は葉をふんだんに残し、森の中は鬱蒼としている。
けれども不思議と、閉塞感はない。
木漏れ日の中で咲き誇る一輪の花に、心が慰められる。
倒れ、苔生した老木。
ミニチュアの森、という趣の群生の茸。
大型の獣は存在しないのか、敵意や害意というものが一切肌に触れなかった。
地面には果実や木の実などの恵みが散らばり、リスが駆け抜け様に一つを攫って行く。
「オルトの様子は?」
陸歩が問うと、アインの背中で樽がゴトリと揺れた。
にやりと羅刹の笑み。
「いい具合だとよ」
「そうか。
そろそろ、目的地だとは思うけど」
特別に太い木の根を跨ぎ越える。
キアシアに手を貸そうと差し伸べると、彼女は「もう」と唇を尖らせた。
「大丈夫だってば」
「でも。病み上がりなんだし」
「平気だって、ほら」
ひょいと跳んで見せられては、陸歩も肩を竦めるばかりだ。
数歩先で先頭を行くイグナが振り返る。
「リクホ様」
その指差す先。
思わず息を呑んだ。
泉がある。
泉が、輝いている。
木々は一層深く生い茂り、薄っすらとだけ射し込む陽光の中。
辺りを瑠璃色に照らす泉。
今まさに水面を小鳥が啄ばんだ。
ぴぴ、と美声で囀り、何処かへと飛び立っていく。
そっと聳える扉の樹。
間違いない。
ここが、イェーニヒ。
誘われるように、どこか夢見心地で近寄って。
膝をついて、泉に顔を写した。
輝きの中に、四人の姿が並ぶ。
あっと思う。
「リクホ、あれって……!」
「あぁ……!」
袖をキアシアに引かれ、陸歩も忘我の体で頷く。
泉の底に、横たわる一振りの剣。
何とも簡素な剣だ。
刀身に特別な彫りがされている訳でもない。鍔が大仰なわけでもない。柄に飾りが施されているでもない。
それでも、あれが聖剣に違いあるまい。
わざとらしさがまるでないところが、むしろ聖剣らしいではないか。
なのにアインは、また。
「一発でへし折れそう」
「…………お前ねぇ」
何かもう、デリカシーとか以前の問題かもしれない。
不意に。
「お客さんかな」
と声をかけられた。
振り返るとそこに。
兎。
襤褸切れを纏った、兎の亜人が、両手に詰みたての茸を抱えている。
「あ……こんにちは」
「はい、こんにちは」
ニッコリと笑顔で返してくれた。
自分に対しても排他的でない態度に、陸歩はそっと安堵する。
おそらくはこの方が、唯一イェーニヒで暮らしているという防人だろう。
声音から、どうも、高齢の男性である様子。
兎の年齢なんてちっとも見慣れていないから、はっきりとは分からないけれど。
いま陸歩たちが思い出すのは、魔女一派のトエン。あの女性も兎の亜人だった。
けれども彼女は、耳と手足だけが獣で、後は人と同じような顔立ちをしていたのに対して。
目の前の兎の人は、首から上が完全に兎。
男女でそのように姿かたちが異なる人種なのか。
それとも全く別な種族なのか。
兎の人は耳と鼻を動かしながら、心なしか弾んだ声で続けた。
「珍しいですな、こんな辺鄙なところへ」
「えっと、実は、お力をお借りしたくて」
とりあえず、と陸歩は持参したものを下ろす。イグナも。
「こちら、よかったらお納めください。食料とか……あ、お酒って飲まれます? 少しですけど」
「これはこれは。思し召し、有難く」
どうぞ、と促された。
ついて行けば扉の樹の陰に焚火があって、椅子の代わりなのか倒木が転がされている。
あるのは、それだけ。小屋やテントはなし。
この兎の人、もしかして仙人暮らしなのか。
茸に串を打って火で炙るのを手伝いながら。
「あの。イェーニヒの、防人の方ですよね?」
「えぇ。ゼオ、とお呼びくだされば」
「俺はジュンナイリクホだ」
と横からアインが口を挟む。
彼は鼻白む陸歩へニヤリとしてみせながら。
「なんだよ、嘘つけるじゃねぇか」
得心したように微笑むゼオ。
「ははぁ、そういったご用件で」
「……すみません。オレが循内陸歩です。こっちのはアイン。
それからイグナと、キアシア」
「初めまして」
「よろしくお願いします」
一つ一つ、丁寧な礼で返したゼオは。
アインの傍らの樽をまじまじと眺める。
陸歩は注意深く切り出した。
「イェーニヒでは、嘘が吐けなくなると聞きました。
……本当ならば、オレたちは、」
獣毛に覆われた掌で遮られる。
「真実を引き出したい相手がおられる。そうでしょう」
「はい。ご推察の通りです」
「ならば、私から問うのは一つ。
――文字通りの命がけになりますが。その覚悟が、お有りか?」
命がけ、とはまた剣呑である。
プライバシー丸裸くらいの覚悟は当然してきたが、生命の危機が伴うのか。
「あの、命がけというのは、どういう……?」
「こういうことです」
そのときにはもう、胸に剣が突き立てられていた。
「は?」
胸に剣。
「落ち着いて。危険ですのでお静かに。
偽りは命にかかわります、努努吐かれませぬよう」
「は……っ」




