転:破 ≪黒影≫
どぷり、とオルトが床へ沈んだ。
楼閣が渦を巻くようにしぼんでいく。
「っ!」
細く捻じれるに従って、アインが開けた裂け目もどんどん塞がり小さくなってしまう。
「やっべ……!」
鈴剣を縮め、口に咥えた陸歩はすぐにキアシアの元へ駆け戻り、彼女を肩に担ぐ。
そのまま、もはや人一人がなんとかというほど狭まった壁の隙間へ、ギリギリで滑り込んで、外へと身を躍らせた。
「――た、っかっ!」
高い。
……いや、高い。
飛び出した場所は、『上空』と表現して差し支えない。
内部を散々走り回っているうちに、陸歩は自分が何フロアを上がったのかもとっくに判別できなくなっていたが。
アインはこんな高度まで跳躍で辿り着いたのか。
「ぅぁっ!」
キアシアが小さく声上げるのは眩しさのせいだ。
陸歩に被せてもらった外套の、さらに上から手で目を覆い、久しぶりの太陽に耐える。
姿勢を整える陸歩。
胸中を緊張が走った。
自分一人なら、高高度からの落下も何のその。
だが腕の中にいる大事な同伴者は、そうもいかない。
彼女を守るべく、体術と剣術を凝らして、衝撃を殺さなくては――
「リクホ様! キアシアさん!」
「イグナ!」
主たちの帰還に、文字通り飛んできたイグナ。
その両腕は光の翼、両脚は猛禽。
Code: Harpy の女面鳥身形態だ。
「失礼いたします」
その鋭利な爪を備えた足で、意外なほど繊細に陸歩の肩を掴み、力強く羽ばたきを一つ。
ぐんと落下の速度が緩くなる。
羽ばたきを、もう一つ、
する前に、陸歩たちの下に長大な足場が添えられた。
薄く紫がかる鉄の斜面――地上から差し伸べられたアインの塔剣、その腹だ。
羅刹にも気遣いというものがあったのか。単に受け止めるだけでなく、塔剣は落下物に対して絶妙な加減で共に沈み、水平になる頃にちょうど陸歩たちは何の衝撃もなく掬い取られた。
「おう。おかえり」
「アイン……お前なぁ!」
「小言は後にしろよ」
タイミングが間違っていればお前の剣がキアシアを殺していたかもしれない、という話が『小言』で済むか。
と、言い募るのを陸歩も保留にする。
それだけ、肌にびりびりと感じていた。
「う……」
未だ陸歩に抱きかかえられたままのキアシアは、おぼろな視界に呻きながら、奇妙なものを見た。
「あれ……なに……?」
「さて、何かな」
陸歩たちの目にも同じく奇妙に映る。
砂漠の只中、楼閣はいよいよ細く、今や揺らめく黒が一筋、立ち昇っているのみである。
天まで一筆でなぞり上げた墨、とでも形容しようか。
じわじわと、黒い靄を発散しているそれは、太陽まで届かんとしている。
ぎゅっと、根元へ向かって一息で収束した。
後には、男が一人、残るのみ。
赤い鶏冠がことさら目立つ。
背に広げた、セピア色の翼が、ことさらに。
羅刹が満面に、歓喜と鬼気を滲ませた。
「ようやく、出るもんが出たじゃあねぇかよ」
項垂れるように立つ、オルト。
その姿はさながら鎧武者。
闇より黒い甲冑で全身を固め、表情は面頬で覆っている。
いよいよ化け物じみているのは腕で、その数、六本。
左右の肩から余分に二本ずつ。追加の腕はカブトムシかなにか甲虫を思わせる、漆黒の節足で、鉤のように鋭い。
右側三本にはそれぞれ、大振りの斧が一本ずつ握られ、反り返る赤い刃が持ち主の分身に見える。
おもむろに。
オルトが、顔を上げた。
と同時に、アインは砂を蹴立てて突っ込んでいく。
「あいつは俺がもらうぜリクホぉ!」
「おいアインっ!
――っんの戦狂いが!」
キアシアを救出した今、これ以上かかずらう必要はどこにもない。
むしろこの場は、彼女の保護を優先して離脱すべき。
とはいえ事が始まれば、羅刹に手が付けられなくなるであろうことは予期していた。
陸歩たちにとってアインへの仲間意識などは微妙なもので、むしろオルトとぶつかって足止めしてくれるというのならそれはそれで都合悪くない。
あらかじめ取り決めてあったことを、陸歩とイグナは頷き合って確認し。
踵を返して走り出す。
「キア、ちょっと飛ばす。揺れるからな!」
「現地点からアウゼンナハルまではおよそ14kmです」
アインは置いていく。
扉の樹まで辿り着けば、どこの街へとなり飛べばいい。
そして例の鍵を使ってリャルカとカナの心臓をもらい受ける。
そのとき、アインがオルトと激突せんとした。
「そぉ……らぁ!」
間合いを詰めるアインの一歩一歩が、愛刀へ力を通伝させる剣術。
切っ先へ十分な『氣』が込められた、塔剣の刺突だ。
まるで、砂漠の表面を滑るもう一枚の大地。
「――――」
オルトは、それを。
素手の左三本で、真正面から受け止めてみせる。
がっちりと刃を掴まれた剣は、アインの怪力でもそれ以上進まなかった。
何という様変わり。
先ほど同じ剣を、砂の上を無様に転げて逃げ回った男とは思えない。
アインの口角がさらに、喜悦の高さに持ち上がる。
「見違えたぜ、オルト」
「…………」
オルトは、答えない。
ただ足元の、自分とアインの影を、見ている。
塔剣が翻る。
今度は袈裟に斬り落とす一閃。
斧の一振りが迎え打った。
――不思議なことが起きた。
やはり何らかの手品が働いているのか。
アインの剣はまたしてもピタリと止められたが……オルトの斧と触れていない。
オルトはただ、足元の影を見つめている。
塔剣から落ちる影と、斧から落ちる影の、交わりを。
その視線を、ふと上げた。
射抜くのはアインではなく、その肩越し更に先で、去りゆく陸歩たちの背中である。
一瞬。
ジュンナイリクホの肩に米俵のように担がれた格好のキアシアと。
目が合った、気が。
「――逃がすかよぉ!」
心に浮かびかけたものを振り払って、オルトは吼えた。
斧の一本を、アインの影へ投げつける。
「……あ?」
表情を怪訝に歪ませる羅刹。
身体が、動かない。縫い止められたかのように。
その隙にオルトは、自らの影へと、まるで水面へそうするように飛び込んだではないか。
一部始終をワスプで視ていたイグナは、即座に警戒レベルを最大まで引き上げる。
「リクホ様! オルトがアインを突破! 砂中かどこかへ潜って姿が、」
消えました、ご注意を。
言い切る間もない。
駆ける彼らの前へと伸びる、彼らの影の中から。
オルトが飛び出した。
「っ!」
「影を振り切れるやつなんざ存在しねぇんだよ」
三本の右手から、陸歩・イグナ・キアシアの影へとそれぞれ投げつけられるのは、持ち主そっくりの斧。
それらは地面に突き刺さっただけでなく、もっと深く、もっと奥――この世の裏側まで、沈んでいく。
「おれぁ影だ」
「てめ、」
身体が動かない。
縫い止められたかのように。
身体が沈んでいく。
沼に足を踏み入れたように。影の、中へと。
「そして、てめぇらも、そうなる」




