承:急 ≪開錠≫
「あ……っ!」
ついにランプの火が消えた。
真の闇に包まれてキアシアは、うっと口元を押さえる。
こみ上げる危機感と恐怖の酸味……喉の奥に感じるそれを、どうにか、目に涙を浮かべて、どうにか。
「……どう、しよ…………」
何も見えない。
何も視えない。
待てども、目が慣れるということが一向になかった。
むしろ時間が経つごとに他の感覚まで侵されるようで、徐々に平衡すら怪しい。
足の感覚すら。自分は、ちゃんと立っているんだろうか?
壁につけたはずの手の感覚すら。ランプ握る手の感覚すら。……どっちの手が、どっち?
「あたし、」
声に出してる?
「頭で考えてるだけ?」
この暗闇の、どこからどこまでが、自分なのだろう?
「――…………っ!」
恐慌にかられかけたキアシアが、辛うじて正気を保てたのは、右足が萎えたおかげだ。
がっくりと床にぶつけた片膝、その痛みで自己と現実感がわずかに蘇った。
右手。
右手だ。
壁についた右手を頼りに、そろりそろりと、とりあえず、その場に座り込む。
左手だ。
左手。
左手に下げていたランプを置いて、指先に神経の全部をやって撫でた。
こうやって自分以外の固くて確かなものに触れていると……少し、安心する。
「さぁ……考えるの。考えるのよ、キアシア。どうするか、考えなくっちゃ」
とはいえ、どう、と言っても。
這っていくのがせいぜいか。
それだって、どれほどの広さ、どれほどの高さか判然としない楼閣だし、相当な無謀だろう。
むしろ、ここで体力を温存して、待っていたほうが得策だろうか。
オルトは、陸歩が来たと言っていた。
なら……。
「リクホ……」
彼は来てくれる。
きっと来てくれる。
キアシアは目をつぶり――いや開いているのか――強く強く願った。
彼は来てくれる。
きっと来てくれる。
あの始まりの時、炎の中から現れて、自分を救ってくれた彼だもの。
きっと来てくれる。
彼は、ヒーローなんだから。
「リクホ……」
リクホ。
「リクホ……っ」
リクホ。
「リクホ……! おねがい……!」
……とっくに時間の経過すら失われていた。
もはやキアシアには、祈る相手がいる、その事実だけが心の支えだった。
耳を澄ます。
陸歩の足音が聞こえはしないだろうかと。
気配を探る。
陸歩がそこまで来ていないだろうかと。
音が聞こえた気がするし、気配がした気も。
でもそれが、自分の外からしたものか、自分の中からしたものか。
もう、キアシアには、分からない。
「…………」
やがて、心にまで無明が沁み込んでくる。
その予感に、ひしひしと、じわじわと、打ちのめされていく……。
「っ!」
ぱっとキアシアは振り返る。
「……?」
気のせいだろうか。
また心が生んだ幻だろうか。
気配。
人の息遣い。
「――だぁれ?」
心臓が止まりそうになる。
今、問いを発したのは誰だ?
あたし自身?
それとも、ついに狂った自分が頭の中に、姿なき声を作り出してしまった?
「だれ?」
また、声。
自分のではない、と思う。そのはずだ。
もっと幼い、男女の区別もはっきりない年頃の声音。
だと思う。
「あ、」
躊躇った。
こういうとき、答えていいのだったか?
何かで読んだが、ちょうどこんな怪談があって、返事をすると取り憑かれてしまうとか……。
――結構なことじゃないか。
「あたしは、キアシア。キアシア・ノートン」
有り体に言えば、キアシアは開き直ったのだ。
取り憑かれる? 結構だとも。
この何もない黒の中で自分以外が存在してくれるなら、妖怪でも悪魔でも構わない。
「あなたは誰なの?」
問い返せば、先方もまた同じところで尻込みしているのか、たっぷり間があった。
キアシアが、せっかくの話相手はランプの火のように消えてしまったのかもしれない、そう心配し始めた頃。
おずおずと。
「……ドゥ」
やっぱり子どもの声、のようだ。
男の子か、女の子か。まだ分からない。
なるべくそっと、優しくキアシアは訊ねた。
「ドゥ? だけ?」
「ドゥジェンス。
だから、ドゥ」
「そっか。何回でも呼びたくなる良い名前ね。
――ドゥ。あなた、どこにいるの?」
「わかんない。ずっとここにいるよ」
今一つ要領を得ない。
とはいえキアシアだって、じゃあどこにいるのかと問われれば、分かりはしないのだから人のことは言えなかった。
「ずっとって? ……閉じ込められてるの?」
「よく、わかんない」
沈黙。
お互いに黙ってしまうと、またこの世の全てが不確かになる気がして、キアシアが何か話題を捻出しようとした、そのとき。
「ねぇ……キア? えっと、キアでいい?」
「うん、いいよ。なぁに?」
「もし、良かったら……また、」
「――――キアぁっ!」
キアシアはびくりと身体を震わせた。
今の声は。
今度は疑うまでもない。はっきりと聞こえた。
「キアシアぁ!」
陸歩、だ。
陸歩の声だ。
「リクホ? リクホ!」
「キア! いるんだな! どこだ!?」
「ここだよ! リクホ!」
廊下の奥から灯り。
それだけでキアシアは泣き出しそうだった。
転がるように駆けてくる陸歩。
涙腺はあえなく決壊する。
「リクホ!」
「キアシア!」
「リクホぉ!」
飛び込んだ彼の腕の中。
あぁ、キアシアは思い知った。自分がどれほど限界だったのか。
固く抱きしめてくれる陸歩が、力強くて暖かくて、心強い。
明るい。
温かい。
彼の心音がはっきりと聞こえる。
「ごめん、ごめんな、キアシア! 待たせた! ごめん!」
「うぅん……いい……! 来てくれたから、いい!」
陸歩もまた、安堵で崩れ落ちそうだ。
見た限りではあるが、無事なキアシアの姿に、危うく落涙する。
未だ名も知らぬ己の神に感謝を捧げた。
「……さぁ、キア。じゃあ、さっさとこっから出よう」
「うん……うん……。
待って、リクホ」
彼の胸から顔を離したキアシアは、鼻をすすりあげてから、「ドゥ?」と呼びかける。
返事は、ない。
「ドゥ? どうしたの? ドゥ?」
「キアシア? ドゥって誰だ?」
「分からないけど……さっきまで話してたの。ずっとここにいるって。
ドゥ!? おーい!
……リクホ、あの子も捕まってるのかも。多分子どもだった。助けたいよ!」
子どもと聞いては陸歩の顔色も変わる。
囚われているとあっては捨て置けない。
右手はキアシアと繋いだまま、より広範囲を照らすべく、左手の炎を強めようと――
かっと灼熱の太陽が差し込んだ。
「っ」
「っ」
突然、横から砂漠の熱が押し寄せて、二人は怯む。
陸歩は咄嗟に、着ている外套へキアシアを包み、何事かと身構えた。
壁に穴。
壁が突き破られたのだ。
影で出来た楼閣の壁は、崩れても音がしないのか。
そして自分たちの立つ廊下の、その奥に、倒れているのは。
「オルト……!?」
つまり、外からオルトが弾き飛ばされて、楼閣の外壁をぶち抜いて、ここで転がっている。
やったのはイグナか、いやアインか。
ふと、陽が陰る。
「なっ」
陸歩の絶句に無理はない。
振り返れば、この高さまで跳躍したのか碧空にアインがいて、塔剣を振りかぶっているではないか。
「アイン、」
こいつ。
オルトに追い打ちを。
その前に自分とキアシアがいるのに、お構いなしか。
「――っ!」
陸歩はキアシアを置いて、腰に差したナイフ大の鈴剣を抜きつつ、壁の穴まで走る。
そして愛刀を一瞬で大剣サイズにして。
飛来する塔剣の一閃を、受け止めた。
「う、おっ!」
びりびりと。衝撃が全身を貫く。
込めた力、盛り上がった筋肉で、陸歩のシャツは端々が裂けた。
踏みしめた足が、数メートルも後ろへ滑る。
なんとか。
止まった。
「ぁアイン! てめぇ!」
「あ? おぉ、リクホじゃねぇか」
「呑気言ってんじゃないよ何しやがるっ!」
「そっちにオルト来てねぇか」
「あぁ!?」
ぽん、と陸歩の肩を叩く、手。
重力に引かれて落下していくアインが、目を眇めていた。
「――ありがとよぉ、ジュンナイリクホぉ……」
オルトだ。
血だらけ砂まみれで立つ彼は、左腕の篭手、その掌へ。
鍵を、挿した。
「助かったぜぇ? これで、ようやく……」
錠の外れる、音。




