結:序 ≪由縁≫
昔話ではあるけれど、御伽噺と呼べるほど遠い日の出来事では、未だない。
だから、諦めきれないのだ。
いつか、迎えがくるかもしれないと。
わたしは、一人、置き去りにされた。
彼女とそれが出会ったとき、彼女はまだほんの乙女だったし、それの方も両手に収まるくらいの若木だった。
それでもその巡り合わせは、とても大きなものだったのだろう。
彼女にとって、若木にとってだけでなく、大勢の人々にとって。
彼女は、神に見初められた神託者。
若木は、世界に愛された『扉の樹』。
この土地の歴史は、そこから始まった。
樹から初めの鍵をもいだ者が、街を創り、民を治める。
それは神代の終わりに定められた義務であり、権利であり、摂理だ。
彼女も初生りの鍵を手にしたとき、胸の内で扉が開く感覚を得た。
ここに街を創る。
営みを敷く。
人の代を重ねていく、その一番始めとなること、それが己の使命であると。
しかし当時のこの場所は、とても人の定住できる有様ではなかった。
神が争った後なのか、それとも星でも墜ちたのか。
ひどい荒野だけが広がっていて、草の一本もなく、むき出しの岩場が延々と続く景色。
街どころではない。
扉の樹さえ、次の春を迎えられるか分からないほど。
彼女に授けられた神威をもってしても、この厳しい大地は塗り替えられない。
だから、彼女は決心してしまった。
神より賜りし権能の証、神託者の翼を、自ら切り落としたのだ。
そして扉の樹の根元へと埋めた。
罪深きその行いの、せめてもの償いとして、両手足をも切断し、共に。
わたしは、一人、置き去りにされた。
神威を土壌に納めたからだろう。
辺り一面はわずか数年で緑に満ちた。
その草を食んだ羊は大きく肥え、せせらぐ川は病人すら癒す。
なにより扉の樹は、年経るごとにぐんぐんと成長していった。
異常なほどに。
わたしは、一人、置き去りにされた。
神様からも、人からも切り離されて、暗がりに一人。
泣いたとも。
喚いたとも。
叫んだとも。
神様のものでも、人のものでももはやない言葉で、必死に。
閉じ込められた樹を、神座まで届けと、懸命に大きくして。
やがてわたしの悲痛は、一本の鍵へと結実した。
その闇色の鍵を手にした少女の名前は、もう忘れてしまった。
けれども始まりの彼女と同じ、両手足がなく、義肢を身に付けた少女だった。
神威を捨てたことへの神罰として、この地の女子たちの中には稀に、生まれながらに四肢のない子があるのだ。
そのときのわたしの喜び、想像つくだろうか。
少女が鍵を手に取った時の気持ち。
その娘は本当に始まりの彼女にそっくりで、生き写しで、わたし、彼女がとうとう迎えに来てくれたのだと思ったくらい。
祈ったとも。
願ったとも。
求めたとも。激しく。
私を見出して、と。
貴女の魂にもう一度帰らせて、と。
……多分、強く想い過ぎたんだろう。
その娘は鍵に呑まれて、狂い、夜叉になってしまった。
夜叉は人も家畜も見境なく襲い、防人がこれを討伐するまでさほど時間かからない。
わたしは、じゃあこの防人なら、って思った。
鍵は、夜叉を討った人へ移ったから、この人こそがわたしを背負ってくれるって。
でも、その人も鬼になって、また次の人が討って……。
次の人も……。
わたしは叫んだ、嘆いた。
誰か、誰かって。
誰か、わたしを、受け止めて。
……なのに、人々は、鍵を遠くへやってしまう方法を見つけるのだから。
鍵と四肢無しの巫女を、山車に詰め込んで、赤羊にどこまでもどこまで、遥か彼方まで引いていかせる。
鍵から発散される力はとても強いから、上手く扱えば飲み食いも寝るも必要とせずに、行進できてしまうのだ。海だって渡れてしまうのだ。
あああ、なんて人達っ。
どうしてその工夫を、わたしを受け入れることに用いてくれないのっ。
なんてこと。なんてこと。
あの鍵は、わたしの願いの結晶、わたしの願いそのものなのに。
わたしは、わたしの願いからも切り離されてしまった。
お願い、帰って来て。
お願い、戻って来て。
お願いだから、お願いだから、お願いだから。
でないとわたし、願うことさえ、出来ないの。
――そうやって、十年叫び続けて。
二十年喚き続けて。
長いときはもっと。
やっと鍵は帰ってくる。
その頃には羊も巫女も山車も、区別がつかないほど互いに混じりあっていて、それでも帰ってくる。
けれども次の巫女が待ち構えていて、先代を酒と肉で散々もてなした後、これを討ってしまう。
こうしてまた新たな山車に乗り込み、赤羊に引かれて、鍵をさらっていくのだ。
わたしはただ、帰りたいだけなのに。
わたしはただ、帰ってきてほしいだけなのに。
泣いたとも。
喚いたとも。
叫んだとも。
でも。
もう。
疲れた。
だって二百余年。
待つのも悲しむのも、くたびれた。
やっと帰ってきた鍵だって……どうせまた、すぐに万里の向こうへ行ってしまうのだ。
もう、何もかも、どうでもいい。
だからさ。
止まってよ、涙。
「なるほどねぇ、そういう事情か」
えっ。
「ずぅっとここで独りだったのか。辛かったな」
誰?
誰?
貴方は、誰?
極光の翼、わたしにとてもよく似た翼を、背負った貴方は誰?
「ならさ、君さえ良ければ、なんだけど。オレと一緒に行かないか。羽ばたくにはオレは、まだちょっと未熟で、だから君が来てくれたらきっと心強い」
あぁ、貴方なの。
わたしがずっと待っていた人は。
わたしは貴方へ帰るために、ずっと待っていたのね。
貴方が受け止めてくれるんだ。
わたしの祈りを。
じゃあ、ここからがきっと、御伽噺。
貴方の魂に連なって、貴方の無限の旅路に従って、わたしはきっと、貴方という極彩色の物語の、一筋となるのだわ。




