急:前 ≪盲目≫
アインさぁ。
心って、斬ったことある?
……なんだい、いいじゃないか。
せっかく酔っぱらったんだから、思春期みたいな話しようよ。
ボクはねぇ、あるよ。
心を造ったこと。
うん。
あるんだよ、心。実際にあるの。
倫理じゃないよ。哲学でもないよ。宗教とも違うよ。
それはね、今まで調べた限りではだけど、人間と亜人にだけ備わった『層』なんだ。
天使にはなかった。
神様にもないのかも。
人の存在の間にだけ、その層はある。
人の中で、心として機能する、薄皮一枚。
ボクはこれを、ゼロから織り上げたことがある。
人形に組み込んだこともある。
すぐに停まっちゃったけどね。
どうも、ヒト以外の中だとあんまり長持ちしないで腐るみたい。
傷んだ心を、治したこともある。
男に乱暴されて抜け殻になっちゃった娘さんをね。
難しい施工だったけど、成功した。
心の問題なんてね。ボク、ボクなら、治せる。
治せるもんだと思ってたよ。
それがどうだい。
一番大切にしなきゃならない人との、関係を壊してしまった。
一番大切にしなきゃいけない人の、心をきっと、傷つけてしまった。
どうしたら治せるんだろう。
治しかたが、分からない……。
ボクねぇ、天才なんだよね。
そのはずなんだけどね。
こんなこと初めてだなぁ。
目的があって、それを達成するためのイメージが湧かないなんて、初めて。
あぁ、これが途方にくれるってやつなの?
もうね。
何をどう試行錯誤したらいいのか、分からないよ。
せめて元通りに、なんて……。
そんな、情けないことばかり考えているよ、最近のボクは。
>>>>>>
「――――」
ベッドで半身を起こしたアイネは、イグナの指に留まったカナリアが囀るその言葉に、じっと聞き入っていた。
やがて、ため息を吐く。
「いっそ、私の心の層、治してもらおうかしら」
「自棄になってはいけませんよ」
「えぇ。大丈夫。分かっていますから」
にしても、ともう一度ため息を吐いた。
「元通りに、だなんて。
もう、戻りっこないでしょうに」
「えぇ。こうなってしまったのなら、もう進めるしかない。
天才にも不可逆なことはあるのですね」
慰めるように微笑んだイグナに。
アイネも、困ったように歯を見せた。
「そうかも。進めるしか、ない。
恐れて篭っていても、損ない続けるだけね」
立ち上がった彼女を、しかし、イグナが引き止める。
「買ってきてもらったお弁当を、キアシアさんが温めています。
少しでも、食べてからのほうがよろしいかと」
それで気付いたアイネは、ちらりと鏡へ目をやる。
確かに。
「こんな、幽霊みたいな血色じゃ、出ていけませんね」
>>>>>>
アイネは、意を決して私室を後にした。
途中まででも付き添おうか、と申し出てくれたイグナとキアシアを、丁重に断って。
メディオは、探すまでもない。今や屋敷の中、主人はどこにでもいる。
何人でもいる。
それこそがアイネの苦悩の種だが。
そんな中で、彼女は、道すがらの部屋を全て通り過ぎ、彼のアトリエを目指した。
確信がある訳でもない。
ただ、可能性が他よりは幾分高いだろう、というだけのこと。
メディオが最も長く重要に使ってきたその部屋なら、そこにいるメディオは、もしかしたら、本物のメディオなのでは……。
果たして。
「――」
呼ばれるまでは決して立ち入らない、とアイネ自身が決めていた、主のアトリエ。
立ち向かう覚悟で、踏み入る。
積もった埃。
積み上がったゴミ。
その奥で、聳え立つパイプオルガンの前に、メディオの背。
「…………ぁ、」
なんと声をかけたものか。
アイネは、言葉が見つからない。
あのメディオはどのメディオなのか。
アイネは、区別がつかない。
そうしてもたついている間に、メディオが気配を察して振り返る。
「――やぁ、アイネ」
「メディ、っ、」
絶句する。
メディオの顔。
「なん、です……それ……っ!」
その両目。
生々しく痛々しい、真新しい横一文字の刀傷で、潰れているではないか。
彼は口の端に笑みを浮かべながら、包帯を巻きつけて、未だ滴る血を押さえた。
「アインにお願いしたんだ。さすが、あの剣士はいい腕だよ」
「そんな、どうしてっ!」
「このボクが、オリジナルのボクだから」
アイネの駆け寄る脚が、ぴたりと止まった。
メディオは慣れない盲目で、おぼつかなげに、妻へと歩む。
「これで、どれが本物か、すぐ分かるでしょ」
「メディオ……それ……知ってたんですか……?」
まるで頼るものを求めるように差し出された彼の腕に、一匹のカラクリ蜥蜴がへばりついている。
小指ほどのそれは、口をパクパクと、言葉を発した。
『――いっそ、私の心の層、治してもらおうかしら』
「私の声……さっきの……」
「ごめんね。でも、盗み聞きはお互い様だろ」
「貴方って人は……」
視覚以外での手探りで近づいてくるメディオ。
気後れしつつも、自分からも近づき、彼のシャツの裾を掴んだアイネ。
本当に。久しぶりに。夫婦は、この距離に。
「痛く、ないんですか?」
「見た目ほどはね」
「……貴方なら、治せるのでは?」
「うん? うん……まぁ。『見る』層を壊したわけじゃないから」
「なら」
「でも、そのつもりはないよ」
「どうして。
目印なら……別に、他になんでも」
「この目の代わりを、君にしてほしいから。
アイネ。どうか、いつもこのボクの傍にいて、ボクの代わりに見てくれないだろうか?」
まるで二度目のプロポーズのようではないか。
不覚にも一度目よりも、ずっと高揚してしまう自分を、アイネは不謹慎に思いながら。
わざとへそ曲がりな口調で。
「他の貴方で見れば、足りてしまうんじゃないですか」
「だとしても。君に見てほしい。君にどう見えているか、教えてほしい。
ボクは、君の景色が知りたいんだ」
「っ」
堪らなくなって、彼のことを抱きしめた。
なんて罪悪感だろう。
最愛の主人を、自傷にまで追い込んでしまった。
どう償えばいいんだろうか。
どう贖えば。
メディオのその目もまた、彼なりの償いと贖いだと、分かってはいても。
なのに、どうしてか、彼のほうがずっとバツが悪そうだ。
「あとさ、ボク、一つ白状しなくっちゃいけないことがあるんだけど……」
「……なんです?」
「…………」
たっぷりと躊躇ってから。
メディオは、ようやく。
「君が、たくさんだったときね……ボク、君を間違えなかったけど……。あれって実は、仕掛けがあって……」
「は?」
「いや、あのぉ……ボクの目にだけ、オリジナルのアイネとそれ以外で、髪の色が違って見えるようにしてあって……そういう染料を使って君の人形を作ってあって……」
なんだそれは。
「なんですか、それ」
呆れて、呆れ果てて、怒る気にもならない。
つまり、じゃあ、今まで、自分は何に歓喜して、自分は何に懊悩してきたんだ?
私、馬鹿みたいじゃない。
「貴方って人は……」
「ごめんね? でも、言い出せなかったんだよ」
「えぇ。まぁ。でしょうね」
今またメディオの頬を濡らした、鮮血の筋を、アイネへ優しく拭き取った。
「ちょっと気持ちの整理がつかないんですけど。
ズルをしていた目は、でも、もう潰れてしまっていますから。
許してあげます」
「ありがと」
「なので……メディオも、私を許して……くれます?」
きょとん、とされる。
「許すって、何を?」
「…………いえ。いいです。
考えてみたら私、振り回されてた側ですし、悪くないですもんね」




