転:急 ≪双刃≫
居間の窓から身を乗り出したリンリャは、息を呑んで地上を見つめる。
遠すぎて判然としないが、明けない夜に灯っている炎だけは、紛れもなく認められた。
「おばあちゃん! 草原から火の手が!」
振り返るも、長老は座して占い盤に見入るばかりで、火事の対応に人を出す段取りすら付けようとしていない。
「おばあちゃん!」
「……行っては、ならん。住民は誰一人、世界樹から出てはならん」
しわがれた返事に、リンリャはほとんど怒声のようにして叫んだ。
「牧場中で羊が鳴いてるの! ねぇ! ここまで聞こえるのよ! おばあちゃん! 夜だって明けないまま!
もしかして、うぅん絶対そう! 先代様が帰って来たんでしょう!」
「行っては、ならん」
あくまでこちらを見ない祖母に、少女は確信した。
「やっぱり、そうなのね……。私、行かなきゃ!」
腕を掴まれた。リンリャは、はっとなる。
今まで座ったまま微動だにしなかった祖母が、わずか一瞬のうちにそこにいて、孫娘の手首を握っているのだ。
とても老人の身のこなしとは思えない、とても老人の握力とは思えない。
振り解こうとしても適わず、またその皺だらけの手が、指が、細く震えていることにリンリャは気付いた。
「おばあちゃん……」
「行ってはならん……行かないでおくれ。お前は、行かないでおくれ」
祖母と孫の目が、初めて見つめ合う。
未来を視るという老練な瞳に鏡のように映る自分の姿、それから渦巻いている哀色の感情に、リンリャは息が詰まった。
「おばあちゃん……。でも、これは、私の役目だから」
二百余年、ドゥノーが生まれてからずっと、続いてきた理。
当代として引き継ぎ、世界樹を未来へと繋いでいくことが、今リンリャに課せられた使命だ。
そこに恐怖や悲哀を差し挟んではいけないと、少女はずっと教えられてきて、老婆はずっと教えてきて、二人は他の誰よりも覚悟してきた。
なのに。
「いいや、いいんだよ」
「え?」
「お前は行かなくていいんだ。行かなくていい。代わりの狩人をやったから」
幾重にも皺の刻まれた祖母の顔は、ひどく不恰好に笑っているように見えた。
意味するところをリンリャは、しばらくかかってようやく察し、さぁぁと青ざめていく。
「代わりって、まさか……」
今度こそ力任せに祖母の手を振り払って、リンリャは家中に声を張り上げた。
「リクホさん! イグナさんっ! いたら返事してください!」
客間の襖を乱暴に開く。
誰もいなかった。
布団は敷かれてさえいない。
隅に荷物が積んであるだけで、部屋の中には体温の名残もなく、今晩ここに人がいた気配がまるでない。
「そんな……」
廊下で床板の軋む音がする。
立っているのは祖母で、腰から上は闇に溶けるように紛れていた。
ただその双眸だけは、青く、青く、意志に爛と輝いて。
「行ってはならん。リンリャ、行かないでおくれ。お前は行かせない。
大丈夫、出迎えはあの二人がする。彼らはきっと、先代様を討つだろう」
「おばあちゃん!」
>>>>>>
骨剣の切っ先が喉元をかすめた衝撃が、鎧の内側で何度も跳ね回る。
その冷たさに、陸歩は思わず身震いした。
「――ちぃ!」
反撃のEブレードを振るう。
けれども魔物は、体躯に見合わぬ繊細かつ機敏な動きで既に飛び退っており、電熱光の刃は空をのみ掻いた。
「こいつっ、」
再び魔物が肉薄してきた。
足さばきは熟達として陸歩に狙いを定めさせず、乱れ舞う双刃は常に視界の外から、意識の外から襲ってくる。
装甲にあられが如く突きが食らわせられた。
返し刃はぬるりと潜られる。
魔物の動きに陸歩は完全に翻弄され、波か風か、実体ないものと戯れている気にすらなる。
「くっ! ……お、らぁあぁ!」
さらに攻め立てられるのを嫌い、陸歩は装甲の隙間という隙間から、紅蓮を吐いた。
赤の奔流に呑みこまれた魔物はしかし、クルクルと宙転することで身体の炎を消し止め、同時に距離を取る。
陸歩は、いつの間にか止めていた呼吸を再開する。
そして脳へ酸素と思考を巡らせた。
魔物のあの、優美繊細かつ苛烈な太刀筋。
舞踏がごとく淀みなく躍動する体さばき。
「……イグナ。オレの勘違い、じゃないよな」
「はい。対象の剣術にはリンリャさんの儀剣との類似点が、現状までで四十二、検知されました。間違いなく同門かと」
「こいつは一体、誰で、何なんだっ!」
魔物から右の斬撃が飛来した。
本当に飛んできたのかと思った。
相手の長い腕に長い剣、陸歩はそれを見越した間合いを取っていたはずなのに、鞭のようにしなる一閃がその外から叩きつけられた。
「やっぱ速ぇ強ぇ、けど!」
ついに捕らえた。
陸歩の左手が今、骨剣の刃をがっちりと掴んでいる。
彼はそのまま魔物を、渾身の力でもって宙へと放った。
「もらったぁ!」
逃げ場のない空中へ、陸歩はEブレードを突き上げる。
翼でもなければ避けようもなく、胴体を両断する一撃だった。
……魔物は、あろうことか、身をよじって巧みに避けて、陸歩のEブレードを握る手、その甲へと片足立ちで着地してみせる。
「んな馬鹿な!」
そのまま降ってくる突きが、二十、三十。
「お、りろ、っつぅの!」
陸歩が強引に腕を振り回す。
と魔物は、その勢いに乗じてふわりと飛び、またしても距離を取った。
「イグナ! ダメージはっ」
「損傷率5パーセント以下。レベル2以上のダメージはありません。装甲を引っ掻かれている程度です」
「そうか……。でもこれじゃ、千日手だ」
魔物の剣は、イグナの装甲を貫けない。
しかし陸歩の剣もまた、魔物にかすりもしない。
持久戦となった場合、不利なのは果たして、こちらかあちらか。
陸歩はしゃにむに突っ込んだ。ブレードを振り下ろした。
だが。
まるで舞う紙片でも相手にしているようだ。彼の振るう刃は、魔物にひらひらと避けられる。
あの巨体が陸歩の剣圧に、はためくみたいにして、軽やかにすり抜けていくのだ。
せめて受け太刀してくれれば、骨剣ごと真っ二つにしてやるものを。
陸歩は歯噛みする。
「パワーはオレのほうが上なのに!」
魔物の斬撃がまた、絶え間なく装甲へ降り注ぐ。
まるで剣の檻だ。
陸歩の反撃を遮るように十数打が突き立てられ、彼が躱すべく動かした脚を、あらかじめ置かれていた一打がまた制す。
陸歩の行動はほぼ全て、魔物の剣技によって掌握されていた。
読まれている。応じられている。
先の先も、後の先も、取られている。
いま振った一撃も、誘導されてのことだ。
いま引いた左足も、導かれて。
これでは、魔物の手順で、動かされているに過ぎない。
「スピードだって、オレのほうが上のはずなのに!」
師匠の言葉が、陸歩の脳裏に思い起こされた。
――剣士が比べ合うのは膂力でも、体力でも、策略でもない。武具の優劣などもっと関係ない。
剣士の格を決めるのは、剣だ。
剣技であり、剣術だ――
「これが、『剣』か……っ!」
陸歩は歯噛みした。
まだ何の応用も効かない、型通りさえおぼつかない初心者の自分には、あの無限に自由な骨の双剣は追えない。
全身発火で魔物を遠ざけ、陸歩は稼いだ時間で問う。
「……イグナ、戦闘プランは」
「構築済みです」
打てば返るようなイグナに、陸歩は長く長く息をついた。
「指示してくれ」
「かしこまりました」
兜の中、彼は渋面をいっぱいに作っている。
「師匠に知れたら、どやされるな」
炎のオレンジの中、陸歩の視界にライトブルーの矢印が浮かび上がった。
同時にカウントが表示される。
「2」、「1」、「Go」。
示されるまま飛び込んだ。
脚は、胴は、鎧によって引っ張られ、それに合わせるだけでいいのだから、タイミングにもルートにも迷うことはない。
イグナに戦闘を委ねれば、どんな未熟者でも、あっという間に歴戦の武者だ。
腕が篭手に引っ張られる。
陸歩はそちらへ、思いっきり振り抜いた。
「せっ!」
横薙ぎにしたEブレード。
魔物の背中は、神輿を背負っているとは思えないほど柔らかく、のけぞるようにして陸歩の刃の下をくぐった。
そのまま地面へ仰向けに倒れたかと思うと、ゴロゴロと転がって間合いを取った。
遅ればせに飛散した、黒い血液が、瘴気に蒸発する。
斬った。
鎖骨のすぐ下を一文字。
だが浅い。
「悪いイグナ、振り遅れた」
「いえ。再計算いたします」
コンマ以下で修正されるイグナの戦闘プラン。
それに伴って画面に推奨モードが表示される。
―― Mantis ――
陸歩は自分が、完全に『着られて』いることを強く自覚しつつ、言われるがままを愚直に発声する。
「Order. Code:Mantis」
右腕の機構が変形し、掌を包み込んで、もはや剣を握るのではなく手首から先自体がブレードとなる。
同様が、左腕でも。
さらに腰部からはマニピュレータが二本展開し、これらもEブレードを灯した。
【Code:Mantis を受諾。
Eブレード出力を36%に再定義。
第二、第三、第四ブレードを解放。
残存エネルギー通知は、ユーザー設定により、非表示となっています。】
斬撃特化形態。
四振りの刀剣を持ち出した今の姿は、この世界のどんな剣術と比べても、異様であることだろう。
「リクホ様。基本的には、手数で押し切る方向で参ります」
イグナが陸歩の耳元へと告げ、それは今までよりもクリアに聞こえた。
「腰の副刃はこちらでユニゾンさせますので、リクホ様は多少の誤差はお気になさらず、両手のブレードを思いっきり振るってください」
「オッケー。了解っ」
手足の引っ張られる感覚。
それに即応して陸歩は跳んだ。
彼はもう目さえつぶっている。
ただ知覚を己が内にのみ向け、鎧が引くほうへ、イグナが演算した勝利への道筋へ、より早く速く駆け抜けることのみに集中する。
「お、りゃあああああぁああぁあっ!」
外から見る者があれば、陸歩の姿は竜巻に見えたことだろう。
四枚のブレードが織りなす竜巻。激しく明滅する竜巻だ。
魔物の絶技も、災害には及ばない。
陸歩の剣――正しくはイグナの剣に、避けようのないものが交じり、次第に骨剣で受け止めざるを得なくなっていく。
いいや、受け止められなどしないとも。
相対する、剣士と剣士は異形と異形。
それぞれが携える、得物もまた。
だが直接に刀剣をぶつけ合えば、光の刃の鋭さが際立つだけのことだ。
二振りの骨は、端から斬り飛ばされ、見る間に短くなっていく。
右手のEブレードが魔物の腕を貫いた。
追いかけるようにイグナの副刃が肩口へと振り下ろされる。
魔物の金属質な悲鳴が耳に障る。
「イグナぁ!」
左手のブレードに、もう一枚の副刃が平行に添う。
そして二刃は互いに螺旋を描くように、高速で回転しだした。
電熱光のドリルだ。
穿つのは魔物の、腹部。
しかし魔物はそれを激しく嫌がり、自由な右手から骨剣を放り出して、突き出された螺旋剣を掴んだ。
ただれる臭い。骨身を削る音。
魔物は構わず、また貫かれている左腕にも配慮せず、無理やりに身体を捻る。
「おっ、」
陸歩が面食らうのは、赤黒い足の裏が視界いっぱいに迫ったからだ。
どういう体勢から放ったものかも判然としない魔物の蹴りは、兜を強かに打ち、その勢いを利用してブレードの刃渡りの外へと逃れる。
だが魔物は、左腕は肩から丸ごとが千切れ、右手も指が弾け飛んでボロボロだ。
「両腕、いただきました」
イグナが厳かに言い、陸歩は右のEブレードを振るって、ぶら下がったままだった魔物の左腕を捨てた。
魔物の瞳に憎悪と、死に対する強烈な忌避が浮かぶ。
胴体の両側からどす黒い血が噴き出し、あまりにも痛々しい……危険な感情移入だ。
陸歩は心を冷たく保とうと努めた。
「悪いな。恨みはないが……」
陸歩は最後までイグナに唯々諾々だ。
画面に示されるガイダンスの通り、右手と左手の機構を組み合わせる。
すると一際巨大なEブレードが生まれ、彼は大上段に振りかぶった。
「討たせてもらうぞ!」
「だめぇーっ!」
破裂するような少女の声が割って入った。
イグナのセンサーが感知し、画面に映し出したものに、陸歩は息をのむ。
駆けてくるのは非常によく見知った顔だった。
「なっ、リンリャ?」
「リクホさん、リクホさんですよね! だめ! 殺しちゃ駄目です!」
「リンリャ! 来るなコイツは!」
駆けた魔物は矢のようだった。
予備動作すらなし。
その傷でどうやってと問いたくなるほどの加速に、完全に虚を突かれた陸歩は、リンリャの前へ魔物が仁王立つまでを、ただ見送るしかなかった。
「く、っそ! 逃げろリンリャ!」
だが少女は覚悟に口を引き結び、目だけで陸歩を制するのだ。
「リンリャっ」
「大丈夫ですから。大丈夫。――これは、私の役目です」
そしてリンリャは魔物へ、深々と頭を垂れた。
陸歩とイグナには訳が分からない。
魔物のほうも少女の礼を、じっと受け入れているのだから。
ドゥノーを目指し、リンリャと同じ剣術を用いた魔物……その正体について、陸歩の思考に嫌な想像がいくつも巡る。
リンリャは最敬礼を解かないまま、ゆっくりと述べた。
「お帰りなさい。三十六年の長きに渡ってのお役目、有難うございました」
そして魔物へと抱き着く。
陸歩の目は、イグナのセンサーは、捉えていた。
リンリャの手には自らの剣が握られており、それは魔物の胸を深々と刺している。
「あとは、私が引き継ぎますので。安らかに、お休みになってください」
あれほどまでに陸歩の剣をかい潜り、ひとたびは腕を捨ててまで逃れた魔物が今、リンリャの刃は受け入れるままとなっていた。
その表情は穏やかに凪ぎ、止めどなく流れる血、広がる傷を、噛み締めているようですらある。
リンリャは、徐々に剣を下げていく。
裂け目を抉られるのは想像を絶する苦痛であろうに、やはり魔物の瞳は平静を湛えたままだった。
「――っ!」
その表情が一変した。
リンリャの剣が、腹へ達しようかというところで。
魔物にあの、生への狂おしいほどの執着が再び差し、荒々しい咆哮を上げたのだ。
死にたくない――陸歩だけが確かに聞いた。
死にたくない、死なせたくない。
守るためなら、殺してやる。
大きく開かれた魔物の口が、リンリャへ迫った。
「あ……」
それを、少女は何の抵抗もなしに待ち続けて。
ついに。
ついに、魔物の首が跳ね飛んだ。
「あぁ……リクホさん……」
こと切れ、倒れゆく魔物の背後には、光の剣を振り抜いた、機甲の天使の凄惨な姿がある。
「なんて、ことを……」
リンリャは涙の零れる双眸を固く閉じた。
それは、眼前の出来事を拒否したかったからでなく。
自分の内に、打ち消しようもなく浮かぶ卑劣さを、せめて隠したかったから。
背負うべき地獄の業が、自らが引き継ぐより前に、他人へと渡ってしまった……その安堵を。
鎧が剥がれる中、陸歩は自身の異変に気付く。
「なんだこれ……鍵?」
右の掌に、幾重にも絡まった鎖。
それに繋がれた、黒い鍵。




