結 ≪外縁≫
出かける前に、会長はきっぱりと戒めた。
「頭の中に、疑問、を持ち続けてください。出来るだけ強く、ずっと」
何に対して、と当然の問いがされる前に、重ねて言う。
「テーマは何でも構いません。自問自答が出来れば何でも。
どうして自分がここにいるのか、とか。
自分の好物を、そういえば何で好きなんだろう、とか」
なんでそんなことを……と、訊いた……訊いた?
訊いたっけ?
訊いた気もする。
答えは、なんて言われたんだったか。
今、全員を数珠のように繋いでいる長い長いロープ。
胴に巻いたそれが、びっ、と張った。
前の人の歩みに、遅れ過ぎたんだ。
なんだか慌てた気持ちになって、慌てて背中を追って、今度は後ろで縄が張ったから、また慌ててしまう。
前の人。
後ろの人。
……あぁ、そうそう、疑問。
誰だっけ。
誰だっけ。
ロープ。
なんで巻いてるんだっけ。
そうだ。世界の外縁を見に行くから。
崖になっている端っこから落ちないようにですか……とは訊ねた。
訊ねた?
確かに訊ねた。
答えは、なんて言われたんだったか。
あれ。
今、何を考えていたんだっけ。
左手でロープを捕まえておく。
その手には分厚い手袋。
でも他には何も衣類を身に着けておらず、それを疑問に思うと共に、裸が急に恥ずかしくなった。
違った、出かけるに際して、登山の恰好に着替えたんだった。
今も着てる。
あれ、なんでこんなに厚着しているんだっけ。
あれ、コートは何色だったっけ。
目を凝らしてもよく分からない。
ぼんやり、ぼんやり。
右手にはランプが揺れる。
中の火は……どうやって点けたんだっけ。
自分で。
あれ。
今、何を疑問に思ったんだっけ。
あれ。
今、何を考えたんだっけ。
暗くもないのに、目の前のことがよく分からない。
手元より遠くのことがはっきりしない。
どこへ向かっているんだっけ。
ただ何となく息苦しい。
意識が。
浮遊している。
沈殿していく。
白い。
強い光の中にいるように、辺りが白い。
ような気がする。
なにせ、目が上手く働いていなくて、よく分からない。
このままこの両目はこのままだろうか。
そう考えると、急に恐ろしくなった。目が見えなくなったらどうしよう。
ここはどこだろう。
自分は誰だろう。
どこへ行くのだったか。
出かける前、誰に、なんて言われたんだったか。
自分は誰だったか。
俺?
僕?
私?
どこまでが自分だったか。
もはや自分とその他との境界も怪しい。
あらゆるものがグニャリと歪んでいる。
けれども何が歪んでいるのか、さっぱり分からない。
ここはどこ。
どこから来た。
どこへ行く。
あれ。
今、何を考えていたっけ。
思い出せない。
何を思い出そうとしていたのか、それすら。
目の前の背中は自分か。
歩くのが嫌になってきたけど、脚の止め方がよく分からない。
足の裏と地面の境界が分からない。
肌と空気の境界が分からない。
過去と現在と未来の境界が分からない。
目と景色の境界が分からない。
びっ、とロープが張った。
>>>>>>
「――――」
我に返る。
覗き込んでくる、陸歩とイグナ。
アインもいる。
ヒューイ会長も。
「お、キア。起きた?」
「おはようございます」
「あ……たし…………?」
意識が焦点を結び始める。
記憶が脈絡となって結び合わさっていく。
キアシアは大きく息を吐いた。
ここはどこ……そうだ。
世界の果てに、一番近い扉の樹。その根元。
その樹は、広がる草原の只中にぽつんと立って、周囲は自然の緑がずっと続いて、視界の限りに人の営みはない。
「あ……そっか。
世界の果てを、見に行ったんだっけ……」
「いかがでしたかな。実に摩訶不思議な場所だったでしょう」
微笑むヒューイ会長に、だが陸歩は肩を竦めた。
「不思議、というか。
よく分からなかった……取り止めが無くなってしまった。
何を見に行ったのか。見に行った自分すらあやふやになっちゃって。
オレたち、何を見てきたんでしょう?」
その答えに、キアシアは何だか安心する。
あぁ。
頭の中が風船になった気がしたのは、自分だけじゃなかったんだ。
ぼんやり。
ただそれだけの空間だった。
頭に疑問を持っていろ……そう指示されたけど、上手く出来ていたか、それすら定かでない。
でもああやって、何か『考える』ということをしていなかったら。きっともっと早く、自分を見失っていた。そんな気はする。
イグナすら、同じ状態に陥っていたようだ。
「……ダメですね。記憶領域は全てErrorとなっています。
これは、覚えていないのではなく、そもそも正しく認識できていなかったと判断します」
「何もかもが曖昧だった…………」
呟いたキアシアは、ようやく身を起こした。
なんだか、浅い眠りをずっと続けていたような気分、そんな体調だ。
白昼夢を見ていたように。
あぁそっか、と思う。
「比喩なんかじゃない……本当でしたね……夢のような景色って」
会長が首肯する。
「果て。外縁。あの領域のことをそう呼びましたが。
世界は、そこまでしか存在しない、わけではない。『はっきりとしていない』と表現するのが正しい」
もしかしてだけど、と陸歩が眉を寄せて言う。
「神様って、空に住んでるって話だけど。
本当は……あそこに住んでたり?」
「面白い仮説ですね。私などには真偽は分かりませんが、あながち無いでもないかも。
ただ、一つ言えるのは、世界は拡大を続けている。
あの『はっきりとしていない』領域はどんどん外へ外へと進んでいて、その分だけ、世界の『はっきりとした』面積も増えている。これは弊社の研究部が観測と測量から導き出した、確かな答えです」
「成長し続ける、世界……」
つまり、この世は永遠に、新天地があり続けるというわけか。
まさしく夢のよう。
「っ、」
不意に、陸歩は身体を折り曲げた。
胸に熱、痺れ。
あぁまただ。
シャツの中身を確かめるまでもない。
そこにはきっと、次なる単語が浮かび上がっている。




