転:破 ≪襲来≫
部屋の中はすっかり抹香で満たされていた。
深夜を目前にいよいよ暗い。
乏しい蝋燭の火が揺れるたび、まるで室内そのものが歪むよう。
そんな中、巨大な鏡の前へ座した長老は、ひたすらに呪言を繰り返していた。
時たま盆へと転がすサイコロやコインは羊の骨で作られていて、空を切る短刀も羊の骨。
術式が佳境へと差し掛かったのか、長老の身振り手振りはより一層大げさとなる。
だが翻って、部屋の隅に控えた二人組は、白けていると言ったら聞こえが悪いが、明らかに弛緩していた。
イグナのほうは正座姿勢で背筋を伸ばしているから、まだしも見られたものだが、それでも働かせている感知センサーは普段よりもずっと少ないし。
陸歩に至っては、あぐらをかいて頬杖をついている。
長老がついには、ヒトの可聴域を外れた高さで叫ぶ。
陸歩はあくびを漏らした。
長老の細い身体が痙攣のように何度も震えた。
イグナは瞬きをする。
ぜいと荒い息を一つ、くるりと向き直った長老が、床に手をついて頭を下げた。
「視えまして、御座います」
「はぁ。そんで?」
陸歩の返事はあまりにもつっけんどんだが、仕方のないところではある。
だってもう七日だ。
七日経った。
リンリャの話を聞いて、その足で出発していたのなら、件のクレイルモリーへの旅程はほとんどが消化されているか、すでに到着しているまである。
この数日はドゥノーの子どもたちと遊んだり、羊の世話を手伝ったり、リンリャから剣を習ったり、表面上はのんびりと過ごしていたが。
陸歩の内心には常にジリジリと焦がれるものがあった。
だというのに長老は、夜ごと占ってはもうすぐだ、近日中だ、と曖昧を言うばかり。
陸歩はもう契約など、ほっぽって行こうかと思っているところ。
今回も外れなら、この婆さんをインチキと断定して、とっとと街を……。
「今夜、で御座います」
「ほ?」
「孫娘をつけ狙う災厄は、今夜、この街を訪れまする」
それを聞いて青年の表情が、安堵の形にくしゃくしゃとなった。
勢いをつけて立ち上がる。
「やぁーっとですか! 行くよイグナ」
「はい、リクホ様」
二人の背中へと、長老は再び頭を下げた。
「どうかどうか、災厄を討ち果たして下さいませ」
「はいはい。さくっと片付けてきますから」
陸歩たちが部屋から去って、玄関から音がして、十分な時間が経って、長老はようやく頭を上げた。
その口元は真一文字であり、その瞳は暗く光る。
>>>>>>
「Order. Code:Perception」
【Code:Perception を受諾。
電脳能力の解放を、ライン2まで許可。
ワスプ全機、運用規定十三項までロック解除。
当該機はこれより、索敵アーマーモードへ移行します。
ユーザーはその場に待機し、装着に備えてください。】
号令に従い、イグナは繊維状に解け、主の全身を包んでいった。
その意匠は、鎧、とはいささか異なっている。
まず目を引くのは頭部。
笠を被ったようなシルエットで、鍔からは風鈴がいくつも吊り下げられている。
もちろん見た目の古風とは裏腹に、その下で動作しているのはテクノロジーの粋だ。
陸歩の目を覆うバイザーは早くも様々な情報を、滝のように示している。
篭手を取り込んだ腕部や、脚部は十分に厚手だが、防具と呼べるほどでない。
全身の装甲も、金属片を鱗状に繋ぎ合わせたもので、防御力よりも可動性を重視している。
そしてこの形態の真価は、腰部に横向きに取り付けられた樽型のユニットにあった。
【装着完了。
使用するワスプタイプを選択してください。
推奨パターンをモニタに表示します。】
バイザーの内側では様々な生物とパラメータが順番に映し出され、陸歩はそのうちの一つに目を留める。
「蛍にしようか。月夜にゃよく映えるだろう」
【了解しました。
ワスプ、蛍型に形状固定し、最大規模で展開します。
展開完了まで、四八秒。七、六、五……】
アーマー腰部の樽から、指先大の機械が次々に吐き出され、四方へ散っていく。
時折ライトグリーンに明滅するそれら機甲の蛍たちが、さっそく拾って寄越す五感情報。
陸歩は目の前を埋め尽くし始めた文字だの画像だのグラフだのの勢いに、軽い酩酊を覚えた。
【……、二、一。
ワスプ展開完了。
以後の運用はユーザー任意に定義されています。
God bless you ――
……、リクホ様。情報の統合とフィルタリングは、ワタシのほうで行いましょうか」
「助かる。あぁ、心得てると思うけど、感知を生体反応に限定しないように。相手が生物とは限らないのが、この世界の厄介なところだよな」
「かしこまりました」
目の前に表示されていた諸々がぐっと減り、陸歩は息をついた。
さて、世界樹から三キロほど離れた草原に佇んで、ふと陸歩は手持無沙汰となってしまった。
月と星の夜空、凪いだ湖面を思わせる大地、ワスプの蛍光……。
「――イグナはさぁ。占いって、信じる?」
口をついて出たのは雑談だ。
「はぁ。リクホ様は、あの長老の占術に、懐疑的でいらっしゃる?」
「いやぁ、そこまであけすけには言わないけどさぁ。
ただこう、羊の骨を転がしただけで、未来や運命が分かるとか? ちょっと、どうなのかなって……まぁ思わんでもないわけで」
しばしイグナが黙考した。
思慮深い彼女が見せる、早計を避けるためのこの間が、陸歩には好ましかった。
「ちなみに、ワタシに組み込まれたアプリの中にも、血液型占い、星座占い、風水、手相にタロットと、一通りの占いが用意されています」
「えっ、そうなの」
陸歩の目の前へ、新たなウィンドウがポップアップする。
――かに座のあなたの今日の運勢は三位!
金運 ★★★★
仕事運 ★★★
恋愛運 ★★★
張り切り過ぎると裏目に出てしまうことがあるかも――
イグナは生粋の戦闘機だ。
そんな彼女にこの一面は、俗っぽいというか暢気というか、当惑するくらいには違和感がある。
「実はこの機能は、ユーザーとなる兵士の、メンタルケアの一環として実装されたものなのです。
ユーザーを観察して、不安やストレスが感知されれば、良い占い結果を提示して鼓舞する。逆に慢心しているようであれば、悪めの結果を示して引き締めさせる。
一種のプラシーボ効果とでもいいましょうか。実際に戦場において、占いや験担ぎによって士気高揚を図り、一定の成果が得られた例は数多く報告されています」
思わず陸歩は笑った。
「なるほど、合理的だ。
……ん。もしかしてイグナは、あの長老は何か思惑があって、オレたちを動かすために占いを騙っている、って言ってる?」
「あぁ、いえ。その可能性はまずないかと思われますが」
イグナの判断は常に論理的だ。
彼女が「まずない」というからには必ず根拠があり、それだけで陸歩は多少安心できる。
「長老の行っていた術式は、実際に魔力が消費されていた、魔術の一種でしたので」
「本当に? じゃああの人、マジで未来が視えてるのか? いや、でも……」
それにしては襲来するものの正体も、場所も、時間も、何一つはっきりとしたことを言わなかったのは何故か。
「だいたい未来が視えるってんなら、オレたちに頼らなくても、自力で十分回避できそうなもんじゃないか? 災厄ってやつが、そもそも来ないように対策するとかさ」
「おそらく、視えるものはかなり限定的なのだと思われます。断片的なのか、おぼろげなのか。もしかしたら夢を見る感覚に近いのかもしれません」
「せっかく魔力を使ってるのに?」
「その魔力消費を抑えるためでしょう。
リクホ様もご存知の通り、この世界の生物が体内で保持する魔力量は、生まれながらが最大です。使用したら、眠ろうと食べようと、一切回復しません。
そのため少量の魔力で、より効果を上げることが求められますが、占術というジャンルはとりわけコストパフォーマンスに優れるそうです。予知と比べては抽象度が高く、精度も落ちはしますが、代わりに要する魔力は微量で済むと」
「よく知ってるなぁ」
画面の中から、イグナが姿なく微笑む気配が感じられた。
「この七日間、本を読む時間は、たくさんありましたから」
彼女がイントネーションに含みを持たせないよう気を使ったのが分かった。
しかしほんのわずか、平坦でない感情が表れていて、陸歩は気付く――あぁ、彼女も同じだったのだ、と。
ただ漫然と過ぎる日々に焦がれていたのは彼女も一緒。
考えてみれば、第一事項に設定された目標をこんなに長いこと達成しないなんて、イグナには初めてのことで、それによる電脳への負荷は如何ばかりだろうか。
「……しかし、どうも、本末転倒な印象を受けるな。魔力をケチって結局、当たる当たらないをトントンにしてるってことだろう?」
「えぇ。ですので、魔なる者など現れないかもしれない。リンリャさんに脅威などないかもしれない。そういう可能性も、あり得るかと。
どうなさいますか。いっそドゥノーには見切りをつけて、発つというのも選択肢の一つ。世界樹に社が建たずとも、今後に大きな影響はないと思いますが」
「んー。まぁ今晩次第だな。夜明けまでに本当に何もなければ、その時は、ね」
「かしこまりました」
さらにしばらく待った。
その間に陸歩とイグナは二言三言を交わしたが、それは内容もすぐに忘れてしまうほど取り止めのないもので。
彼の心中へは待機の苦痛が、澱のようにじわじわと溜まり始める。
いっそ災厄とやらの来訪を、強く望みかけたとき。
遠く東の山の峰から、せり出してくる、太陽。
「……朝になったな」
「はい。現状までワスプ各機、異常は感知しておりません」
「チッ。結局さ、」
ずぶりと足の沈む感覚に、陸歩ははっとなった。
沼に腰まで浸かったようで、慌てて飛び退くが、元いた場所に何の変りもないことを認めて、激しく混乱する。
それどころではなかった。
見上げれば頭上に月。
空は再び一面が夜に包まれ、灯りといえば星か蛍の火だけ。
「リクホ様っ」
「あー……もしかしてオレ、一瞬寝てた?」
「違います、夢などではありませんっ。いま確かに一度朝になりました。現在時刻は早朝を差しています。なのに再び夜となったのですっ」
それを聞いて陸歩の神経は、一斉に緊張を巡らせた。
「イグナ、ワスプに敵影はっ!?」
「――高密度の神威体を感知」
「神威体だって? 遊びにきたのは神サマに縁の何かかよ!」
「出現地点はここより西南へ、距離1200メートル。ワスプからの中継映像をモニターに表示します」
他のあらゆる情報を押しのけて、大写しになった一枚の景色に、陸歩はこの上なく面食らった。
真ん中で蠢いているものに。
「なんだこれ……」
黒い靄を引きつれるそれを、二足歩行と見るべきか、四足とするべきかでまず迷う。
歩き方はヒトのようだが、とにかく腕が長く、足だけでなく指先も地面についてるのだ。
体格は判然としない、たっぷりとした髪に隠れているからだ。頭から生えた癖毛は、そう、ちょうど羊毛のようで、脛まで包むほど長い。
こめかみからは一本ずつ、螺旋状に伸びる角。これもまた、羊じみている。
おぞましいのは顔だ。
だって、ヒトの顔してる。
女の顔だ。
それが赤黒い肌をして、まぶたを無くしたように瞬きもせず、心を亡くしたように感情を排して……。
背中に何か背負っている。担いでいる?
――陸歩の見立ては、別角度を捉えたワスプの映像で否定された。
あれは。『生えて』いるんだ。
魔物は首を前に落とすように前傾姿勢で、その丸まった背中からは、神輿が生えているのだ。
幾ばくかのぞく肌には必ず、痣のような、斑点のような、呪印のような模様があった。
これが頭身二メートル強。
全長、神輿の先端までで測れば、三メートルを優に超える。
幼いころに悪夢に見る存在が、そのままそこにいる。
予見され続けた魔なる者の正体は、人でもあり物でもあり妖怪であり、またそのうちのどれでもなかった。
唐突に魔物が、さらに身をかがめた。
消えた。
イグナすらが色めき立つ。
「暫定目標、移動を開始しました! 世界樹を目指して北上中! 時速九十、百、百十、……まだ加速しています!」
「まずい、速すぎる! 抜けられちまうぞ!
イグナ! Order. Code:Ignition!」
アーマーの変形を待つのももどかしく、陸歩は猛然と駆け出した。
イグナのシステムと機構は、それを一投足すら邪魔せず、むしろアシストしながら、鎧の形を主の意の通りへと改めていく。
【Code:Ignition を受諾。
索敵モードからアサルトモードへ移行します。
展開中のワスプは順次回収。
併せてパラメータの解放設定を更新。】
全身の鋼鉄が戦闘用へと変形し、陸歩はさらに脚に力を込めた。
両の踵には炎が灯り、草原に燃え移る危険も今は顧みず、闇間に赤い残光を引きながら駆け抜ける。
足の裏では電磁反動装置が作動し、踏みしめるたびに爆発のような推進力が生まれた。
それでも足りない。
もっと、もっと速く。
「イグナ! もっと燃やしていいかっ!」
問えば途端に陸歩は、身体が鎧によって宙に釣り上げられるのを感じる。
そのコンマ五秒の間に、イグナは脚部形状の最適化を済ませていた。
ミサイルの噴射口を思い浮かべてもらえばいい。それが今、彼らの足首より先だ。
「思いっきり、やってくださいませ」
「いっ、けぇえええええええええっ!」
あらんかぎりの炎を吹き出して、陸歩は彗星となった。
地表すれすれを、音速にすら迫ろうと飛ぶ。
空気が壁となって立ちはだかるのを、力任せとイグナの姿勢操作とで強引に突破し、目標物へ猛然と接近していった。
魔物を目視で確認。
陸歩は発火を止め、イグナは鎧に再度脚を形成し、二人は地面に轍と焦げ跡を刻みつけながら急制動をかけた。
燐光黒煙と共に、今、魔物の前へ機甲の天使が立ちはだかる。
「――言葉が通じるとも思えないけど。ここから先は、行かせない」
試しに言ってみれば、少なくとも意志は伝わったらしい。
魔物はぼんやりと立ち止まり、陸歩たちを見つめたまま、どこかで取って来たらしい手の中のものに齧り付く。
羊の頭部だった。
その、頭蓋を噛み千切り、音を立てて脳みそを啜る様には、思わず背筋に冷たいものが走る。
「あー……共食いじゃねぇの、それ?」
グルグルと魔物が喉を鳴らした。肯定なのか否定なのか。
金やすりを掛けたみたいに耳障りな鳴き声で、陸歩は顔をしかめる。
あっという間に羊頭を平らげてしまった。
こぼれた食べかすは地面に落ちるまでに黒い瘴気に解け、ひどい悪臭を放つ。
この間、魔物は、ただの一瞬も陸歩から目を離していなかった。
「……これは、ダメだな」
陸歩は苦く呟く。
進んで殺生はしたくない。災厄の正体次第では追い払って済ます、ということも少なからず期待していたのだけれど。
これは駄目だ。
あの眼は、獣ですらない。
もっと深くて暗い、沼。
殺らなければ、殺られる。
立ち止まっていた魔物が、足を動かし始める。
一歩。一歩。
「くるぞ……イグナ!」
「武装展開準備完了。いつでもいけます」
踏み込んでくる――陸歩は身構え、そして、
すれ違った。
「え?」
魔物は陸歩たちを、まるで路傍の石くれかのように、全く無視して素通りした。
ただ世界樹だけを見据えて、酔っ払いのように肩を左右に大きく揺らしながら、歩いていく。
「――まっ、」
陸歩があっけに取られたのは一瞬だ。
すぐさま我に返り、魔物のその歯牙にもかけない態度に激昂しながら、回り込んで再び立ち塞がる。
「、っちやがれぇ!」
同時に発した火炎を手掌で操り、自らと魔物を囲う円とする。
即席の、紅蓮の土俵だ。
生草を燃やして青臭い煙を立てるそれを、魔物はぐるりと見渡した。
当たり前だがお気に召さなかったらしい。
未だ一度も瞬きしない瞳に、初めて明確な憎悪の色が差した。
そしてその長い腕を、三つもある関節を駆使して折り曲げ、腰から刃を抜き放った。
右手に一振り。
左手にも一振り。
どうやら骨を鋭く研いで刀にしたものらしく、黄ばんだ白をした双剣は、魔物自身と同じように黒い瘴気を纏う。
魔物が唸った。
陸歩は耳を疑う。
「……今、あいつ、邪魔するなって言った?」
「いえ。言葉と認められるものは、発していないと思われますが」
聞き違いか。
オレも緊張しているな、と陸歩は長く息をつく。
今や魔物は、引き絞られた弓のように、全身に力を充満させていた。
体勢を低くし、斬りかかるその時を待ち続けている。
「イグナ、Eブレードを」
鎧の右側、手首から肘にかけてのギミックが作動した。
せり出したロッドは陸歩の手に収まると、電光の刃を発し、さながらエネルギーで形作られた巨大なカミソリである。
魔物は二刀。
陸歩は一刀。
ここより先は、斬撃によってのみ彩られる、凄惨な死地。
感覚が加速し、現実は鈍麻する。
魔物が吠えた。
あぁ、やっぱり……。
陸歩は思う。
……聞き間違えじゃ、なかったな。




